生きる意味ってなんですか?

~その答えは仏教にありました~

死ぬのが怖い人へ、お釈迦様からのメッセージ

さいころ

「死んだらどこへ行くんだろう」

「みんな自分のことを忘れてしまうのかな」

「もうお母さんに会えないのかな」

 

そう思うと怖くなって、布団の中で震えていました。

 

大人になってからも、家族や親せきや友人、大切な人が亡くなったとき、

 

「もう二度と会うことができないのだなぁ、話すことができないのだなぁ、肌に触れることもできないのだなぁ。」

 

そう思うと、悲しくなり、涙が出ます。

 

それと同時に、

「自分も同じように死ぬときがやってくるのだなぁ。」

 

と一瞬は思うのですが、家に帰ってこればすぐに忘れ、のんきに今日の晩御飯のことを考えている自分を恥ずかしく思います。

 

他人の死を見て、自分の死を深く見つめられる人は、よっぽど仏縁の深い方だと思います。

 

たいていの人は、人が死んでも自分のこととは思えません。

自分はまだまだ死なないと信じ込んでいるからです。

 

しかし、本当にそうでしょうか?

 

自分はまだまだ死なないと思っていた人が、実際は死んでいるのです。

 

朝起きて、「さぁ、今日が私の死ぬ日だ」と分かって死んでいく人はこの世に誰一人いません。

朝、「行ってきます!」と元気に家を出た人が、夜には白骨となって帰ってくる日があるのです。

 

「死んだら無だ」「死は休息だ」「死んだら楽になれる」と言う人もいますが、本当に死の先がそのような安らかなものであるならば、早く死んでもいいはずです。

 

そういう人に限って少しでも病気になると医者にかけこみ、少しでも長く生きたい、死にたくないと実は思っているのです。

 

つまり、すべての人が「死ぬのが怖い」と思っているのです。

 

「死んだら無だ」と口では言いながら、心の中では死の不安と恐怖に耐えきれず、死後の世界を肯定しようと矛盾に苦しんでいるのが私たち人間です。

 

そうやって、孤独のまま死の恐怖におびえながら死んでいく人が、過去も未来も永遠に繰り返されていくのです。

 

「人間はみな、生まれたときも独り、死んでゆくときも独り、来たときも去るときも、独りぼっちである」(釈迦)

 

その真実に驚き、

自分もいつかは死なねばならない

この命あるうちに本当に果たさなければならないことは何なのか

死んだらどこへ行くのか

 

そう思った仏縁の深い方から、仏法を聞かねばなりません。

 

死後を往生一定と明るい未来にするのが、仏教の目的であり阿弥陀仏の救いなのです。

後悔なく臨終を迎える秘訣とは

私たちはみな、明日があると信じて生きています。

 

しかし、「明日がある」というのは果たして真実でしょうか?

 

今日交通事故で亡くなった人、病気で亡くなった人に、明日という日はありませんでした。

 

自分の命は明日もある、1週間後もあると信じているので、手帳にスケジュールを書き込みます。

1か月後もあると信じているので、旅行の予定をたてます。

10年後もあると信じているので、老後や年金の心配をします。

 

結局自分はいつになっても死なないと、かんかんに信じ込み、本当に大切なことを後回しにし、いざ死を迎えた時には手遅れだ。

というのが私たち人間の姿だと仏教では教えられます。

 

いつまでも命があると思って生きる人は、だらだらと時間を過ごし、臨終に必ず後悔します。

今日が最後の日かもしれないと思って生きる人は、一瞬一瞬を大切にし、悔いなく臨終を迎えることができます。

 

いつまでも明日があると思って、のんきに生きている私たちに大事な警告をされているのが、仏教です。

 

浄土真宗の開祖といわれる親鸞聖人は、たった9歳で次のような衝撃的な歌を残しています。

 

明日ありと

思う心のあだ桜

夜半(よわ)に嵐の吹かぬものかは

 

(どんなに満開に咲く桜の花も、嵐がふけば一晩のうちに散ってしまいます。

 人の命はその桜よりもはかないと聞いております。

 明日もあると思うのは間違いです。)

 

4歳のときにお父さま、8歳のときにお母さまを亡くされた親鸞聖人は、幼くして天涯孤独の身となり、どれほど辛く寂しい思いをされたでしょう。

 

「次に死ぬのは自分の番だ、死んだらいったいどうなるのだろう」

いずれ自分にもやってくる大問題に悩み、この心の不安を解決したいと比叡山の仏教に救いを求めました。

 

当時、比叡山に入るには出家得度という僧侶になるための儀式を受けなければなりませんでした。

 

出家得度の儀式を受けたいという幼い親鸞聖人に対して、比叡山の座主である慈鎮和尚(じちんかしょう)が言われました。

 

「では、明日、得度の式をあげよう」

 

仏教界では最高権威である慈鎮和尚でさえ、無常を忘れてしまうのです。

明日があると思い込んでいる大人に対して、わずか9歳の親鸞聖人が先ほどの歌を書かれたので、人々は驚いたのです。

 

無常に気づくのは、大人も子供も関係ありません。

 

突然世を去った父母のように、明日があると信じていても裏切られるときがくる。

ぐずぐずしてはいられない。

無常を見つめられた親鸞聖人は、この深い深い不安を解決し、死ぬまでに果たさなければならない人生の目的を達成させようと血のにじむような仏道修行に入られたのでした。

なぜ自殺してはいけないのか③

 

ananchangbuddhism.hatenablog.com

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自殺問題について考えることは、これからの日本にとって、そして人類にとって、最重要課題であると私は思っています。

 

なぜなら、政府が国をあげて取り組んでいるにも関わらず、いまだに答えが見つけられていないからです。

逆にいえば、この自殺問題にこそ、「本当の幸せ」の鍵があるといってもいいと思います。

 

厚生労働省のHPには、『自殺対策白書』というデータが公開されており、

・自殺者数の推移

・年齢階級別、職業別自殺者数

・自殺対策とその実施状況

などを見ることができます。

 

自殺理由に関しては、遺書などが残っている場合に限られるので、すべての理由を把握することはできません。

しかし、これらの資料からいくつかの傾向も見えてきます。

 

第二次世界大戦後、若者の自殺率が増加していること

 

これは、悲惨な戦時体験が若者の心に大きなダメージを与えたことや、戦後の社会経済の混乱が影響しているのではないかと思われます。

 

②1983年に中高年男性の自殺率が増加していること

 

これは、プラザ合意以降、ドル安円高へ推移した中での不況が要因ではないかと言われています。

 

③そして1998年に今までにない急激な自殺率の増加

 (この年にはじめて自殺者3万人を突破)

 

これは、バブル崩壊による影響とされていますが、それ以降も自殺率は増え続けています。

 

④自殺の原因を見ると、全体での1位は、健康上の要因。しかし、男性だけで見ると、仕事や生活苦による自殺のほうが多い。

 

つまり、仕事や生活苦を理由に自殺をするのは女性ではなく男性が圧倒的に多いということです。

 

そのほかにも色んな見解があるかと思いますが、仏教ではこの自殺問題はどのように見ることができるのでしょうか。

 

2600年前、お釈迦さまによって説かれた仏教の根幹にあるのは、

因果の道理というものです。

 

因果(いんが)の道理・・・

すべてのものごとには、必ず「原因」と「結果」がある

原因が分からないということはあっても、その結果が起こったということは必ず原因がある。

 

この真理は、現代の科学でもすでに証明されていることと思います。

 

この因果の道理、正しくは、

因縁果(いんねんか)の道理といい、「因」と「縁」が合わさってはじめて「結果」が生じるとされています。

 

「自殺」という結果の因と縁は何でしょうか?

 

先に挙げた①~④などの自殺の傾向や、自殺理由とされている戦争・病気・仕事・生活苦などが自殺の原因だと思っている人がほとんどだと思います。

 

しかし、これらは自殺の「縁」にすぎません。

ではいったい自殺の「因」は何なのでしょう?

 

仏教では、「死んだらどうなるかわからない心」が根本原因であると言われます。

専門用語で、「後生暗い心」「無明の闇」といいます。

 

戦争や病気、仕事や人間関係、生活苦など、生きているとさまざまな悩みや苦しみにぶちあたります。

それらが縁(きっかけ)となって、人ははじめて「自分は何のために生きているのだろう」と考えるのだと思います。

 

真剣に考えた結果、こんなに苦しいなら死んだほうが楽になれるという結論に達した人が自殺をしているのです。

しかし、死んだら本当に楽になれるのでしょうか?

死んだら楽になれるかどうかは、本当は誰も知らないのです。

 

この、死んだらどうなるか分からない心(無明の闇)が晴れないかぎり、私たちは人生において本当の安心も満足もない、本当の幸せが分からないまま死んでいく、と教えられています。

 

反対に、この無明の闇が晴れれば、

「自分はこのために生まれてきたのか!」という大歓喜とともに、

「自殺をしてはいけないのは、この身になるためだったのか!」

ということもハッキリします。

 

自殺をする人だけではありません。

長生きをしても、どれだけ豊かな生活をしていても、悩みがない人にでも、この無明の闇は必ずあると言われます。

 

無明の闇とはどのような心なのか?

無明の闇が晴れるとどうなるのか?

どうすれば無明の闇が晴れるのか?

 

私たちが本当に心から幸せになるために必要な疑問に答えられたのが仏教なのです。

なぜ自殺してはいけないのか②

後輩が自殺をしたことをきっかけに、なぜ自殺をしてはいけないのか?ということを真剣に考えるようになりました。

 

この問いにはっきり答えを出しているのは、今のところ仏教だけであるという記事を以前書きました。

 

ananchangbuddhism.hatenablog.com

 

学校のホームルームや道徳の時間に、

人間の尊厳とか

なぜ命は尊い

などというテーマが論じられるようになっているそうです。

 

では、実際先生たちは、

「なぜ自殺をしてはいけないか?」

という問いに答えることができているのでしょうか。

 

かつて『朝まで生テレビ』という番組で、17歳の少年をパネラーとして集め、

世の知識者たちが話し合ったことがあります。

 

少年が

「じゃあ先生方に聞きたいのですが、なぜ人を殺してはいけないのですか?」

と聞くと、

なんでも流ちょうに答えるはずの評論家たちがみんなシーンとなってしまい、あわててコマーシャルに入ってしまうということがありました。

 

なぜ自殺をしてはいけないか?という問いと、

なぜ人を殺してはいけないか?という問いは、

一見まったく違う質問に聞こえますが、根っこの部分では全く同じです。

 


では、どんな答えが用意されているのでしょうか?

大きく分けて3つあります。

 

1.道徳的水準
2.社会的水準
3.哲学的水準

 

1.道徳的水準とは、倫理・道徳やモラルを基準として出る答えです。

 

例えば、

「なぜ人を殺してはいけないのですか?」

「ダメに決まってるだろ!ダメなものはダメ!そんなこと言うお前がおかしい」

 

これも一つの答えですが、その答えを正真正銘知りたいと思っている人にとっては納得のいかない答えでしょう。

 

2.社会的水準とは、社会学で説明できる答えです。

 

例えば、

「人を殺せば社会から罰せられる。死刑になるかもしれない。それが嫌なら殺しはやめなさい。」

 

一見理にかなっているようですが、この答えではもう止めようがないところまで私たちは来てしまっています。

 

自分の人生が大切だと思っている人を止めることはできるかもしれませんが、

もう自分の命なんてどうだっていい、

人を殺して自分も死にたい、

どうにでもなれ。

 

と思っている人には、少年法の改正もなんの役にも立ちません。

 

3.哲学的水準

 

いらない紙をやぶいても、何とも思いませんし、人からも何も言われません。

ところが、一万円札をやぶいたら、同じ気持ちでいられるでしょうか。

 

いらない紙はやぶけるのに、一万円札はやぶけない。

それは、私たちが一万円札に価値があると知っているからです。

 

命も同じです。

 

命に価値があることを知らないから、いとも簡単に人を殺したり、自ら命を落とす人がたえないのです。

命に価値があることをハッキリ知っている人は、めったなことで人を殺したり、死にたいなどと思うことはありません。

 

つまり、命の価値=生きる意味がはっきりしなければ、

なぜ自殺してはいけないか

なぜ人を殺してはいけないか

この問いに答えることはできない。

 

これが哲学的水準です。

 

つまり、長い長い歴史のある哲学でも、ハッキリした答えはでていないということになります。

 

そんな中、

なぜ自殺をしてはいけないか

なぜ人を殺してはいけないか

なぜ苦しくても生きなければならないのか

なぜ命は尊いのか

これら生きる意味について唯一ハッキリ答えられているのが仏教です。

 

むしろ、仏教とは「なぜ生きる」の答えひとつを説かれたものなのです。

 

そして「なぜ生きる」の答えを知るにはまず、

仏教で説かれる「苦悩の根元」を知らなければなりません。

 

仏教で、私たちの苦しみの元はなんだ言われているのでしょうか。

大切な人を亡くした方へお釈迦さまからのメッセージ

子供や親、兄弟、夫や妻、恋人・・・

大切な人を亡くしたとき、私たちは深い深い悲しみに苦しみます。

 

その愛が深ければ深いほど、大好きであった人ほど、亡くした時の悲しみは大きく、

いっそ自分も一緒に死んでしまいたいとさえ思います。

 

その絶望感は、誰にもわかってもらえない、孤独の悲しみです。

 

いったいどうすれば、その悲しみを乗り越えて、強く生きていくことができるのでしょうか。

 

2600年前のインドで、実際にあったお話です。

 

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ある村に、キサーゴータミーという麗しい女性がいました。


彼女は結婚して可愛い男の子を産みましたが、命より大切に育てていたその子が、突然の病で急死したのです。

彼女は狂わんばかりに愛児の亡骸を抱きしめ、この子を生き返らせる人はないかと村じゅうを尋ね回りました。
会う人見る人、その哀れさに涙を流しましたが、死者を生き返らせる人などあろうはずがありません。

 

ですが、今の彼女に何を言っても無駄だと思った人が、


「舎衛城におられる釈尊(お釈迦さま)に聞かれるがよい」


と教えました。

 

早速、キサーゴータミーは釈尊を訪ね、泣く泣く事情を訴え、子供を生き返らせる法を求めました。

 

憐れむべきこの母親に、釈尊は優しく次のように仰いました。

 

「貴女の気持ちはよく分かる。

愛しい子を生き返らせたいのなら、私の言う通りにしなさい。 

これから町へ行って、今まで死人の出た事のない家からケシの実を一掴み貰ってくるのだ。

そうすれば、すぐにも子供を生き返らせてあげよう」

 

それを聞くなり、キサーゴータミーは町に向かって一心に走りました。

 

しかし、どの家を訪ねても、

「昨年、父が死んだ」
「夫が今年、亡くなった」
「先日、子供と死別した」


などという家ばかりです。

 

ケシの実はどの家でも持ってはいましたが、死人を出していない家はどこにもありませんでした。

しかし彼女は、なおも死人の出ない家を求めて駆けずり回ります。


やがて日も暮れ夕闇が町を包む頃、もはや歩く力も尽き果てた彼女は、トボトボと釈尊の元へと戻りました。

 

「キサーゴータミーよ、ケシの実は得られたか」


「世尊、死人のない家は何処にもありませんでした。

私の子供も死んだ事がようやく知らされました」

 

「そうだよキサーゴータミー。

人は皆死ぬのだ。明らかな事だが、分からない愚か者なのだよ」


「本当に馬鹿でした。

こうまでして下さらないと分からない私でございました。

こんな愚かな私でも、救われる道を聞かせて下さい」

 

と彼女は深く懺悔し、仏法に帰依したとされます。

 

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仏教を説かれたお釈迦さまでさえも、死んだ人を生き返らせることはできませんでした。


お釈迦さまが、キサーゴータミーに伝えようとされたのは、自分で実行してみなければ分からない諸行無常という思い真実でした。

 

大切な人を亡くした悲しみは、なかなか受け入れられるものではありません。


時には、いきなり真実を話すよりも、何かを実行させる事によって、受け入れる事ができる、そういう事もあります。

 

そして、大切な人の死を決して無駄にしてはいけません。

残された者に大事なことを教えてくれているのです。

 

このキサーゴータミーのように、大切な人を亡くしたことを縁として、仏教を聞き、絶対に変わらない本当の幸せにならなければなりません。

私の人生このままでいいのだろうか

「私の人生このままでいいのだろうか」

 

そんな風に思う人は少なくありません。

 

私もときどき思いますし、友人の悩み相談などを聞いていても、

このワードにうなずく人は意外と多いです。

 

「毎日、家と仕事の往復で一日が終わっていく」

「かと言って、自分が何をしたいのか分からない」

「このまま同じことの繰り返しで人生が終わっていくのか」

 

自分がどんな時にこんなことを思うか、考えてみると、

人生それなりにうまくいっているとき

なのです。

それなりに、です。

 

毎日が最高に充実していて、悩みなんて一つもない

そんなときに、人は「このままでいいのだろうか」とは思いません。

悩みがないのですから当然です。

 

ところが逆に、人生のどん底にいる時も、

「このままでいいのだろうか」とは思いません。

 

なぜなら、辛くて苦しいときは、目の前の問題をどうにかすることに必死で、

先の人生のことを考える余裕などなくしているからです。

 

少なからず悩みはあるけれども、それなりに楽しいこともある。

自殺するほど辛い人にくらべたら自分は幸せなほうだが、

人生に満足しているかというとそうでもない。

 

そんな「楽」と「苦」のちょうど中間にいるときに、

人は「このままでいいのだろうか」と

考える傾向にあるのではないかと思います。

 

実は、この時が人生を変えるとんでもないチャンスなのです。

 

 

 

仏教に、流転輪廻(るてんりんねという言葉があります。

輪廻転生(りんねてんしょう)などとも言われます。

 

「流転」も「輪廻」も同じところを際限なく回ることを言います。

丸い輪っかの上を、ぐるぐる回り続けているのをイメージしてもらえばよいです。

 

これは、お釈迦様が、私たち人間の迷っている姿をいわれた言葉です。

 

私たちは、何か目標がなければ生きていけません。

 

いい大学へ入るために勉強し、いいところへ就職できるようにさらに勉強する。

仕事で成果をあげるために一生懸命働き、休みを楽しみにして頑張る。

妻子を養うために、家族のために働く。

自分の趣味を生きがいに仕事を頑張る。

病気になれば、克服するために治療をがんばる。

 

目の前にある目標という明かりに向かって私たちは生きているのですが、

そうやって結局はどこへ行くのでしょうか?

 

流転輪廻の輪っかを思い出してください。

 

輪っかの上をどれだけ進んでも、その先に終わりは見えません。

 

それと同じように、

私たちの目標は人生の通過点にすぎず、ゴールではありません。

 

戦後、日本は高度成長を遂げ、さまざまな課題や目標をクリアしてきましたが、

そこに生きている人間はその勢いと同じように幸せになれたでしょうか。

 

世の中は変わりましたが、人の心は今も昔も何千年前もちっとも変っていません。

 

ずっと不安でむなしいまま、全人類が昨日も今日も明日もあくせくして同じところをぐるぐる回っているだけなのです。

 

その姿を、流転輪廻といわれるのです。

 

ではいったい、どうしたらよいのでしょうか?

 

仏教には、その流転輪廻を断ち切り、人間に生まれてよかったという大きな喜びの世界に出る方法が説かれています。

 

とりあえずの目標ではない、人生の目的を教えられたのが仏教です。

 

生きる目的がはっきりすれば、人生のゴールが見えれば、

人はどんなつらいことも乗り越えられます。

 

あなたが今抱えている悩みや、過去に経験してきた辛いこと、

それらすべてが喜びに変わる、そんなすごい世界が仏教には説かれているのです。

なぜ自殺してはいけないのか?①

人生は苦なり

 

とお釈迦さまは言われました。

 

人生というのは苦しみ悩みの連続で、

生きていくことは本当に大変なことです。

 

あまりにも大きな壁にぶちあたったり、絶望したとき、

私たちは、いっそのこと死んでしまいたいとさえ思います。

 

死にたいとは思わないけれど、

消えてしまいたい。

人の記憶から消えたい。

無になりたい。

死んで楽になりたい。リセットしたい。

 

そんなふうに思っている人がどれだけいるでしょうか。

 

こんなに辛いなら、生まれてこなければよかった

と親をうらんだりもします。

 

では、なぜ死んではいけないのでしょうか?

 

私自身は、

そんなに苦しいなら、死んでもいいんじゃないか

迷惑をかけなければ自殺してもいいんじゃないか

と、かつては思っていました。

 

今、生きているのが苦しくて苦しくてしょうがなくて、

そこから解放されるならば、死という選択もありなのではないかと

思っていました。

ただ、

家族が悲しむことを考えると、

自殺を肯定してはいけないような気がしていました。

 

そんな時、

自殺はなぜいけないのか、深く考えさせられる出来事がありました。

 

葬儀屋で働いていたある日のこと。

 

20代の若い女性が亡くなったということで、納棺師としてそのご自宅へ向かいました。

なんだか嫌な予感がしながらご自宅へ伺うと、

亡くなったのは、私の学生時代の後輩でした。

 

 

布団に横たわるのは、変わり果てた彼女の姿でした。

私と一歳しか変わらない女の子。

もともとは割とふっくらしていた子でしたが、

やせ細り、冷たく、真っ白になっていました。

 

私は涙が出そうになるのを必死でこらえながら、

彼女を白装束に着替えさせ、化粧をほどこしました。

 

納棺をしながら、いつもと違う異様な雰囲気を感じていました。

若い女の子が亡くなったというのに、

親族からは雑談や笑い声が聞こえるのです。

この家族、なんだかおかしい。

 

納棺の儀式のときは、

たとえ100歳で亡くなったおばあちゃんでさえ、

遺族は神妙な空気につつまれます。

死というのはそれだけ、厳しく辛いものだからでしょう。

 

ところが、

彼女が亡くなったときは、誰も近くに寄ってこないし、

棺に納めるときも、なかなか親族が手伝ってくれませんでした。

 

あとから分かったことですが、

彼女の両親は離婚し、子供を置いて2人とも失踪してしまったそうです。

そこに集まっていた中に家族はおらず、親族だけでした。

親戚をたらい回しにされた彼女は、自分の居場所がなくなり、

自殺したのではないか

という話でした。

 

もちろん死んだ理由は、彼女にしか分かりません。

 

自分の軽四の車の中で練炭をたいたようでしたが、

死因は「凍死」でした。

 

つまり、練炭で自殺しようとしたけれど、

やっぱり苦しくなって、

車の外に出たみたいです。

ところが冬だったので、外で冷たくなって死んでいた

ということでした。

 

やっぱり彼女は死にたくなかったんだと思います。

死にたいけど、死にたくなかったんだと思います。

 

どんな気持ちで死んでいったんだろう

誰にも分かってもらえない孤独の中で死んでいくのは

どんなに辛かっただろう

 

死んでも誰も悲しまない

彼女は楽になったから良かった

とは到底思えませんでした。

 

そのことがあってから、

なぜ自殺はいけないのか?

なぜ死んではいけないのか?

なぜ人を殺してはいけないのか?

死んだらほんとに無になるのか?

 

そういうことを真剣に考えるようになりました。

 

ただ、

だめなものはだめ

命は尊いものだから

死んだら人が悲しむから

などという気休めの答えには納得がいきませんでした。

 

いろいろ答えを探し回った結果、

唯一納得のできる、はっきりした答えを出していたのは

仏教だけでした。