生きる意味ってなんですか?

~その答えは仏教にありました~

「諸行無常」が幸せのキーワード

『涅槃経』というお経の中に、

 

諸行無常

という言葉があります。

 

古文の授業で聞いたことがある人もいるかもしれません。

 

平家物語』の冒頭にも使われています。

 

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、

沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理(ことわり)をあらわす」

 

祇園精舎の鐘の音は、

世の中に不変はないと言っているように聞こえる。

沙羅双樹の花の色は、

盛んな者は必ず衰えることを表している。

思い上がった者は長く続かない)

 

諸行・・・この世のすべてのもの

無常・・・常が無い。同じ状態を保つことはなく、移り変わっていく。

     永久不変のものはこの世にはない。

 

家や物など形あるものが老朽化、壊れていくのは誰でも分かるでしょう。

 

そして物だけでなく、

私たちの心も、昨日と今日、明日では違います。

むしろ毎秒ころころ変わっているのが人間の心です。

 

そして最後には、

私たちのこの身体もまた、老いて、必ず無くなるものです。

 

悲しい現実をつきつけられているようで、

目を反らしたくなります。

 

必ずやってくる死を受け入れたくないがために、

みんな死の話題を忌み嫌います。

 

なるべく見ないように見ないようにして、

毎日を生きています。

 

人の訃報を聞いて、一瞬はドキッとしますが、

すぐに忘れて、またいつもの生活に戻るのです。

 

しかし、仏教では、

「本当の幸せ」を手に入れたければ、

この諸行無常を見つめることが最も大事だと言われます。

 

無常を観ずるは、菩提心の一なり

 

観ずる・・・

感じるのではなく、見つめるということ。

悲しいという感情ではなく、ただ事実として「見つめる」ことが大事。

 

一(はじめ)・・・

始めではなく、すべてのはじまりの「一」。

ここからしかはじまらない。

 

菩提心・・・

本当の幸せになりたいと思う心。

 

つまり、死をありのままに見つめることが、

本当の幸せになれる第一歩であるということ。

 

自分の親や子供、恋人、仲間、友達、

すべての人に死が訪れるということが分かれば、

その人を大切にせずにはいられないはずです。

 

明日死んでしまう人に、

汚い言葉やひどい態度がとれるでしょうか?

 

私たち人間はひとりでは生きられません。

 

あなたが今ここに存在しているのは、

両親、祖父母、そのずっとずっと先のご先祖からの

命のご縁があったからです。

 

誰かひとりが欠けたら、あなたは生まれていません。

 

家族がいることが当たり前になっていませんか?

仕事があることが当たり前になっていませんか?

平和が当たり前になっていませんか?

毎日ごはんを食べて、

あたたかい布団で寝られることが当たり前になっていませんか?

生きられることが当たり前になっていませんか?

 

これらはすべて、当たり前でなく、

明日には無くなっているかもしれないものばかりです。

 

私たちが、当たり前と思っているものはすべて、

実はとても有り難いことなのです。

 

f:id:ananchang:20170515152220j:plain

「生きる」とは「信じること」

 

神を信じる

仏を信じる

 

などと言われますが、

「信じる」というのは、特定の宗教に限ったことではありません。

 

・この人と結婚すればきっと幸せになれると「信じて」、

人生の伴侶を決める。

 

・仕事は辛いけど、頑張れば幸せになれると「信じて」、

毎日会社に通う。

 

 ・老後の蓄えや、資産があれば安心だと「信じて」、

貯金や保険、投資信託を選ぶ。

 

 ・明日も自分の命はあるものだと「信じて」、

手帳に1週間後のスケジュールを書き込む・・・

 

私たちは、神や仏に限らず、

何かを信じなければ、一日たりとも生きられないのです。

 

親や子供、夫や妻、金や仕事を頼りにし、

このためにがんばろう!

と信じるものがあるから、毎日生きていけるのです。

 

しかし、実際はどうでしょうか。

 

3組に1組が離婚するとも言われる世の中。

愛し合って結婚したはずの2人が

いつしか憎しみに変わることもあります。

 

へとへとになるまで働いて、

家族との時間は取れず、

結局何のために頑張っているんだろうという矛盾に気づきます。

 

必死で貯めたお金や財産も、

死んだら一円も持っていけません。

 

子供たちのために!

と思って残した財産が原因で、子供たちが争うこともあります。

 

3.11東日本大震災の日、

またいつもと同じように1日を過ごせると信じていた人たち。

まさか今日が自分の死ぬ日だと思って家を出た人がいたでしょうか?

 

まさか、

これが大切な人との最後になると知っていた人がいるでしょうか?

 

「人は必ず死ぬ」と頭では分かっていながらも、

自分はまだまだ生きていられると無意識に信じている。

そうしなければ私たちは生きていけないからです。

 

明日も命はあると信じていたがために、

それが裏切られた悲しみは、果てしがありません。

 

そんな裏切りが、世界中にあふれていることは、

ニュースや新聞を見てもわかります。

 

大切な人を亡くして、嘆き苦しんでいる人がたくさんいます。

 

そのやり場のない怒りや悲しみを、

政府や電力会社や地震津波などの自然に対して向けるしかないのです。

 

「信じる」=「生きる」

 

とも言えるでしょう。

 

では一体なにを信じればいいのでしょうか?

 

何かを信じても、いつかは裏切られる。

 しばらく幸せが続いても、

「死」が来たら何にも残らない。

 

果たしてこの世に必ず幸せになれるという

絶対的なものがあるのでしょうか?

 

「親も友達もなにも信じられない」

「そんな辛い人生なら死んだ方がましなのではないか」

 

「そもそも人生に意味などあるのだろうか」

 

「どうせいつか死ぬのに、

なぜ自殺してはいけないと大人は言うのか」

 

そんな答えの見つからない疑問に、

仏教ははっきりと答えてくれます。

 

その答えを知るためには、まず、

事実を事実として受け入れる心の器が必要です。

 

無常を観ずるは、菩提心の一なり

(むじょうをかんずるは、ぼだいしんのはじめなり)

 

自分の命の儚さを見つめ、

無常をよくよく理解することが、

本当の幸せへの第一歩であると言われます。

 

f:id:ananchang:20170420125831j:plain

「宗教」=「信じる」なのか?

宗教というと、

神様・仏様、自然、有り難いシンボルなど、

何か人間の力の及ばないすごいものを「信じる」こと

と認識されていると思います。

 

神のご加護を信じる

自然のパワーを信じる

信じる者は救われる

 

では、その「信じる」とはどういうことでしょう?

 

「信じる」=「疑わない」

ことだと思っている人が多いですが、

よく考えてみると、

「信じる」という言葉の裏には必ず「疑い」があるのです。

 

つまり、

本当に疑いようのないことなら、

「信じる」とは使わないはずなのです。

 

例えば、

「私は女である。」

 

これはもう疑いようのない事実だと自分で分かっているので、

「私は女だと信じている」とは決して言いません。

 

疑いようのないことは

「知っている」と言います。

「私は女だと知っている」のです。

 

多くの宗教は、信じるものは救われるという教えですが、

「神を信じている」の裏には必ず「疑い」があるということです。

 

本当の意味では、神を信じ切れていないのです。

 

仏教ではどう言われているでしょうか。

 

私達人間に、真実を信じる心などは到底ない

 

と説かれています。

 

仏教では、私たち人間は皆、

「煩悩具足の凡夫(ぼんのうぐそくのぼんぶ)」である

と言われています。

 

晦日、お寺で除夜の鐘が108回打ち鳴らされますが、

あれは私たち人間の心にある煩悩の数です。

 

どんなに素晴らしいと言われている人にも必ず108個の煩悩がある

と仏教では説かれています。

 

私たちは、

煩悩(欲、怒り、ねたみそねみの心)のかたまり、

煩悩100%で出来ているのが、

人間の真の姿だということです。

 

そんな、

自分の欲を満たすことしか考えていない私たち人間が、

真実を信じなさいと言われて信じられるような

「まことの心」など持っていないと説くのが、

仏教です。

 

仏教は、かなり、ストイックです。

 

でも、それが事実であることは、

少し真面目に自分を見つめてみると分かるはずです。

 

事実を事実として見つめるのが仏教。

かなり論理的な教えです。

 

信じる心ぐらい持ってるわ!

とうぬぼれているのが私たち。

 

そんなうぬぼれ心で信じているうちは、

絶対に幸せにはなれないと

仏教では言われています。

 

煩悩だらけの私たちが、

どうしたら本当の信心(本当の幸せ)を得られるのか?

 

それを相手に合わせて説いていかれたのが、

今日、7000冊以上のお経となって残るお釈迦様の教えです。

 

f:id:ananchang:20170420124209j:plain

そもそも宗教って何?

 宗教って何だろう?

 

と改めて疑問に思う人は、

日本では少ないかもしれません。

 

私の人生では、

宗教というものについて考える機会が何度かありました。

 

まず、19歳でロシアのモスクワ大学へ留学した時。

 

大学の寮に1年近く住んでいたので、

ロシア人だけでなく、ヨーロッパ・中国・アメリカなど

さまざまな国から集まった人たちと交流することが多くありました。

 

共同キッチンで仲良くなり、

誰かの部屋に集まって、ディスカッションがはじまることが日常茶飯事でした。

 

知り合って割と早い段階で聞かれるのが、

 

「あなたの宗教は?」

 

だったのです。

 

この質問、

自分にとってはかなりのカルチャーショックでした。

 

「なんて答えよう・・・

いちおう実家は浄土真宗だから仏教かな?

でもロシアはたぶんキリスト教だよな・・・

宗教の違いでトラブルになったら困るし・・・」

 

と心の中で葛藤し、結局答えたのが、

 

「私は何も信じていない。

自分を信じている。」

 

この答えは、海外の人たちを困惑させます。

「宗教がない」と答えると、

相手が微妙な反応をすることに、だんだん気付き始めました。

 

あるとき言われたのは、

 

「何も信じるものがないなんて、可愛そうね」

 

私は最初、この言葉の意味が分かりませんでした。

 

可愛そう??

 

からしたら、

宗教にすがらなければ生きていけないほうが可愛そうだ

と思っていたからです。

 

貧しい人や紛争地域で苦しんでいる人たちが、

助けて下さいと神にお願いするもの。

それが宗教。

 

だから、

宗教というのは豊かな日本に住んでいる自分には

一生必要のないものだと思っていたのです。

 

その時は、

「かわいそう」と言われた言葉に不信感を持ちつつも、

特に深く考えることもないまま、

いつの間にか、忘れてしまいました。

 

「何かを信じる」ということの本当の意味、大切さを理解したのは、

それから10年後でした。

 

f:id:ananchang:20170418112553j:plain

世界中の人が本当の幸せになるには

世界中の人が幸せになるにはどうしたらよいか?

ということを10年ほど前から真剣に考えはじめました。

 

哲学書や心理学などの本を読みあさったり、

海外の貧しい国や、紛争地域を1人で放浪してみたり、

変わった仕事や趣味に挑戦してみたり・・・

 

それなりに得るものはあったし、

まわりからは「超リア充」な人間に写っていたと思います。

 

しかし、心はずっと満足しないままでした。

 

どうせみんな死ぬのに、夢を追いかけてどうするんだろう。

 

自分は何のために生きているんだろう。

 

もっと強くなりたい。

 

思いっきり冷めた心の自分と

「なにか」を求めて炎をくすぶらせている自分のギャップに

子供のころから苦しんでいたように思います。

 

いろんな世界を自分の目で確かめた結果、

 

私が辿り着いた『本当の幸せ』の鍵は、仏教にありました。

 

f:id:ananchang:20170417185044j:plain