生きる意味ってなんですか?

~その答えは仏教にありました~

親の大恩④ 寝る間も惜しんで育ててくれた母へ感謝

親の大恩十種の4つ目が、

④ 乳哺養育の恩(にゅうほよういくのおん)

 

これは赤ん坊にお乳を飲ませ、養うご恩です。

 

生まれたばかりの赤ちゃんは、

三時間ごとに母親のお乳をねだり、

泣き出します。

朝9時 12時 15時 18時 21時 24時 3時 6時・・・

お母さんは、まともに寝る時間がありません。

 

乳を飲ませ、

子供を育てることは、

何でもないようですが、並大抵のことではありません。

特に母乳が足りない時は大変です。

 

牛乳では、

生まれたばかりの子には強すぎてお腹をこわしてしまいます。

人工ミルクにしても、

成長するにつれて乳の濃度を調節するのは、

なかなか難しいものです。

 

ところが母乳は、

最初は薄く、子供の成長に適合して、

しだいに濃くなってゆくそうです。

自然の法則の妙でしょう。

 

温かい母の胸で、命の糧を頂いたことは、

大人になっても母への想いを熱く募らせるものです。

 

めんどくさいといってやめてしまったら、

赤ん坊は生き延びることはできないでしょう。

 

元気で大きくなれたという影には乳哺養育の恩があるのです。

親の大恩③ 苦しみを忘れて、わが子の誕生を喜んでくださる父と母

親の大恩十種の3つ目は、

③生子忘憂の恩(しょうじぼうゆうのおん)

 

これは、

元気に生まれた我が子の姿を見ると

これまでの悩み苦しみが一返に吹き飛んで

父母ともに喜んで下さるご恩です。

 

父母恩重経』には、

 

「若しそれ平安になれば、猶蘇生し来るが如く、

子の声を発するを聞けば、己も生れ出でたるが如し」


とあります。

 

子供の健康を一心に念ずる親の恩は、

ひと通りではないでしょう。

やがて元気な子供の顔を見れば、

それまでの一切の苦しみを忘れて、

家族全員、「よかった」と歓声をあげます。

 

10か月間、身重の体をひきずり、

出産の激しい痛みに耐えてきた苦労も、

子供の泣き声を聞くと、すべて忘れ、

こんな幸せなことはないと喜んでくださるのが母親です。

 

また、

女性が体験する出産の痛みは、

男性では耐えられずに死んでしまうほど痛いものだと言われます。

 

しかし、しばらくすると、

母親はその痛みを忘れてしまうそうです。

いつまでもその痛みを覚えていると、

その恐怖でまた子供を産もうという気持ちにはならないからです。

 

出産なんて二度とするかと思っていた人でさえ、

また子供が欲しいなと思うそうです。

 

新しい命をこの世に生まれさせるという

大変な使命を果たす母親に備わった本能なのでしょう。

親の大恩② 出産の激しい痛みに耐えてくれた母に感謝

お釈迦様は、

父母恩重経というお経の中に、

親の恩がどれほど深く有り難いものか、

10に分けて教えられています。

 

その「親の大恩十種」のニつ目が、臨生受苦の恩。

 

②臨生受苦の恩

 

これは母が出産のときに

激しい痛みを我慢して生んで下さったご恩です。

 

いよいよ月満ちて陣痛が起こり、

子供を産む時の苦しみは、

青竹を握ると、それを二つに押し割るほど激しいといわれます。

 

出産の苦しみを陣痛といいます。

 

陣は戦場のこと

男性にとって命をかける場所は戦場でしたが、

女性に取って命をかけるところが出産なので

陣痛というのでしょう。

 

男性には陣痛の痛みは耐えられないそうです。

 

ある学校では、

鼻の穴からスイカが出てくるほど苦しいと言っている

と聞いたことがあります。

 

父母恩重経』には、

「月満ち時到れば、業風催促して、偏身疼痛し、

骨節解体して、神心悩乱し、忽然として身を亡ぼす」

とあります。

 

我慢できないほどの痛み、苦しみ、

半狂乱になって、死ぬ思いで産んでくだされる母の様子が

分かります。

 

お釈迦さまのお母さま・マーヤー夫人は、

出産後七日目に亡くなられました。

 

お母様は、

まさに命がけでお釈迦様を生まれたのです。

激しい痛みに耐えて、産んだわが子と

別れなければならなかった母はどんなに辛かったことでしょう。

 

それを知った釈迦のお母さまへの想いは

どのようなものだったのでしょうか。

 

子供を産むというのは、親も子も命がけなのです。

自分を犠牲にして、子を守る親もいます。

 

この臨生受苦の恩も

どんな人でもどんな親であっても

必ず受けてきたご恩であることには間違いがありません。

親の大恩① お腹の中で守り育ててくれた母に感謝

お釈迦様は、

父母恩重経というお経の中に、

親の恩がどれほど深く有り難いものか、

10に分けて教えられています。

 

その「親の大恩十種」の一つ目が、

懐胎守護の恩。

 

①懐胎守護の恩(かいたいしゅごのおん)

 

お母さんが妊娠してから出産するまでの苦労です。

 

「悲母、子を胎めば、十月の間に血を分け肉を頒ちて、身重病を感ず。

子の身体これに由りて成就す」

 

(母親は子を宿せば、

出産までの十月の間に自分の体や血肉を分けて、

子供の骨格をはじめすべてをつくりあげてゆく。

その激しい作業のため、

体は常に重病人のように感ずるが、

こうして子供の体が成就してゆくのである)

 

妊娠すれば、つわりが始まります。

他人から見ていても苦しそうですが、

中には激しいつわりのため、

みるみるやせてゆく女性もあります。

食べ物が摂れないのです。

妊娠すると体に激しい変化が生ずるからです。

 

十月十日といいますが10ヶ月もの間、

子供をお腹の中で守り育てることは大変なことです。

 

お釈迦さまが言われるように、

子供の体はすべてお母さんの体を削ってつくられます。

 

妊娠すれば、

みかんなど酸っぱいものを欲することがありますが、

体が酢酸(酢)を要求するからです。

みかんなどに含まれている酢酸は、

カルシウムを溶かす働きを持っています。

母は子供の骨格をつくるため、

自分の骨の成分であるカルシウムを酢で溶かし、

胎児へと運ぶのです。

 

出産後、

骨がもろくなったり、

髪がばさばさになる女性も多いと聞きます。

カルシウムでできている、

母親の骨、歯、毛髪などが傷んでしまうからです。

 

自分の命を削って子供の体を作って下さるのです。

 

どんな人であっても、

この世に生まれたということは

この懐胎守護の恩があったなればこそ。

 

今現在、

たとえどんなに悪い母親であったとしても、

今あなたがここにいるということは、

少なくともこの苦しみに耐えてくだされた母のおかげなのです。

親に感謝できないのはなぜか?

「なんで自分は親に感謝できないんだろう?」

 

と悩んでおられる方は意外と多いです。

 

親に感謝できなくて悩むというのは、

非常に尊い心の持ち主だと思います。

 

自分の心を見つめ、

「親に感謝したい」

と努力している方にしか湧いてこない心だからです。

 

昔から、

親には感謝しなさい、

親孝行すべき、

育ててもらったのだから恩返しをすべき

などと言われます。

 

仏教でも、

親の恩というものを非常に大事にします。

 

父母恩重経というお経の中には、

山よりも高く海よりも深い親の恩を、

十に分けて説かれており、

これを、【親の大恩十種】といいます。

 

たしかにここまで育ててもらい、

大学など出させてもらったならなおさら、

親に感謝しなければならないのは分かります。

 

しかし、親が酒飲みで、暴力をふるい、

借金をつくって家族を捨てて他の女の元へ行く。

そのせいで家族はめちゃくちゃ。

自分も不幸。

 

そんな親でも果たして感謝できるでしょうか?

 

(なんで自分を生んだんだ!)

(勝手に産んだんじゃないか!)

(こんな不幸にするならいっそ生まれてこなければよかった!)

 

心の中ではそう叫んでいます。

 

そこまで大変な家庭ではなかったとしても、

「まぁ、親に感謝はしているけど・・・」

「恩返ししようとか、そこまでは考えない」

「親が学費出すのは当たり前でしょ」

 

実際はそういう人が多いように思います。

 

実は、

本当の意味で親に感謝できるのは、

自分が本当の幸せになった時です。

 

本当の幸せとは、

世間でいう相対の幸福とは全く違う幸せだと

お釈迦様は説かれています。

 

仏教を聞き、

「自分が生まれてきたのはこのためだった!」

という絶対の幸福が分かった時です。

 

「自分はこの喜びの身になるために、この世に生まれてきたんだ!」

 

ということがハッキリわかると、

産んでくれた親に感謝せずにおれなくなるのです。

 

逆に言えば、

「自分が何のために生まれてきたのか」分からない、

喜べないうちは、

心から「産んでくれてありがとう」と思えないのは当然なのです。

 

感謝しなさい、とか、親孝行するべき、

など人から強制されるものではありません。

絶対の幸福に救われると、

感謝せずにはおれなくなるのです

 

どんなにだらしない、

どうしようもない親だったとしても、

その両親がいなければ、

こんな幸せにはなれなかったと思えるのです。

 

産みの親に限らず、

育ての親にも、

親の代わりに育ててくれた人にも、

ご恩を感じずにはおれません。

 

仏法を聞き、

少しでも早く絶対の幸福にさせていただくことが、

真の親孝行であり親の恩に報いることになります。

 

その身になるまで仏教を真剣に聞かせていただきましょう。

墓参りの本当の意味とは?

8月15日は「お盆」と呼ばれ、

墓参りへ行かれる方も多いと思います。

 

私も小さい頃から、

「じいちゃんの墓行くよ~!」

と親に連れられて、

墓に向かって手を合わせたりしていました。

 

しかし、

内心ではずっと疑問に思っていました。

 

「なんでただの石に向かって、お酒やお花を供えるんだろう?」

「じいちゃんは、もうそこにはいないよね?」

「お坊さんが墓に向かって唱えるなぞのお経は一体何なの?」

「みんな目をつぶって、何を祈っているの?」

 

大人になっても、

本当の墓参りの意味を知らない人が多いのではないでしょうか?

 

もともと「お盆」という言葉は、

盂蘭盆(ウラボン)経」

というお釈迦さまの説かれたお経から来ています。

 

お釈迦さまの十大弟子の一人に目連(もくれん)という人があります。

目連は、神通力(じんつうりき)第一といわれ、

特に孝心の深い人でありました。


その目連が、神通力を得て三世(さんぜ)を観ました時に、

痛ましいことに亡き母が餓鬼道(がきどう)に堕ちて

苦しんでいることが分かったのです。


彼は深く悲しんで、

直ちに、鉢に飯を盛って母に捧げましたが、

喜んで母がそれを食べようとすると、

たちまち、その飯は火炎と燃え上がり、

どうしても食べることができません。


鉢を投げ捨てて泣きくずれる母を、

目連は悲しみ、

「どうしたら、母を救うことができましょうか」

と、お釈迦さまにお尋ねしました。


その時、お釈迦さまは、

「それは、そなた一人の力では、どうにもならぬ。

この7月15日に、飯、百味、五果などの珍味を、

十方の大徳、衆僧に布施しなさい。

布施の功徳は大きいから、

母は餓鬼道の苦難からまぬがれるであろう」

と教えられました。


目連が、お釈迦さまの仰せに従ったところ、

母は、たちどころに餓鬼道から天上界(てんじょうかい)に浮かぶことができ、

喜びの余り踊りました。
 
*神通力:人間の考えの及ばぬ、霊妙自在の力。
*三世:過去世、現在世、未来世のこと。
*餓鬼道:食べ物も飲み物も、炎となって食べられず飲まれもせず、飢えと渇きで苦しむ世界。
*天上界:迷いの世界の中では、楽しみの多い世界。

 

 

親孝行できた嬉しさのあまり、

目連が踊りあがって喜んだことが、

「盆踊り」のはじまりであるという説もあります。

 

しかし、本来の仏教では、

死んだ親や先祖のために食べ物を供えたり、

読経することが親孝行では決してないと言われます。

 

盂蘭盆経を見ても分かるとおり、

お供えをしなさいと言われているのは、

死んだ親や先祖のためではありません。

十方の大徳、衆僧に布施しなさい

と言われています。

 

つまり、説かれる教え(仏教)を大切にしなさいということです。

 

葬式をしたり、遺骨や墓を大事にしたら、

死んだ人間が救われるという迷信は、

仏教では否定されています。

 

また、

「お盆には先祖の霊が帰ってくる」

というのも、本来仏教とは全く関係のない信仰です。

 

お釈迦さまは、

「石は、石の重さで沈んでいったのだ。

どんなに浮かび上がれと言ったところで、浮かぶものではない。

人は、己の過去に造った悪業によって、

悪因悪果、次の世界に沈むのだ」


“読経や儀式で死人の果報が変わるはずがない”

 

と断言しておられます。

 

では、墓参りは全く意味のないことなのか?

 

というと、決してそうではありません。

 

まず、

自分の命の有り難さに感謝するご縁となります。

 

お父さんお母さん、おじいちゃんおばあちゃん、

自分の先祖をさかのぼっていくと、

33代さかのぼったところで、現在の地球と同じ人口になります。

 

そのご先祖の中の誰ひとりが欠けても、

私は生まれてこられませんでした。

 

10代前の〇〇じいさんが、

若くして亡くなっていたとしたら、

もう私はここにはいません。

 

私が生まれたという結果は、

想像もつかないくらい有り難いことなのだと、

お釈迦さまは『盲亀浮木のたとえ』の中でおっしゃっています。

(有り難うの語源)

 

また、私たちは日々忙しさに追われて生活していますが、

せめて年に一度、

やがて自分にも必ず無常(死)がやってくる

という事実を心静かに見つめて、

 

「限りある命で本当になすべきことは何だろうか」

「どうすれば後悔のない人生を送れるのか」
 
と、自分を見つめ直す機会になれば、

墓参りは素晴らしい縁となります。

 

亡き父母や先祖が私たちに願うことは何でしょうか?

「正しく生き、幸せになってほしい」

親が子に願うことは、これしかありません。
 
お釈迦さまは、

私たちがどの方角に向かって生きていけば、

本当に悔いのない人生となるのか、

本当の幸せになれるのか、

お経の中に教えておられます。

 

その教えを聞かせていただき、

自分自身が「本当の幸せ」になることが、

真の供養であり、

真の親孝行となるのです。

 

 

法鏡とは?

私たちが、

決して崩れることのない永遠の幸せになるためには

仏教をよくよく聞くことが大事であると言われます。

 

まず、

自分の本当の姿を正しく知ることが、

幸せの第一歩だからです。

 

2600年前のインド。

お釈迦さまが、

35才で仏のさとりを開かれてから、

80才でお亡くなりになるまでに説かれた教えを仏教といいます。

 

お釈迦様がお亡くなりになる時、

お弟子が、

「お釈迦様の45年間の教えを一言で言うとどんな教えですか?」

と尋ねました。

 

7000冊以上のお経になる膨大な教えを、

たった一言で答えるとは非常に大変なことです。

 

ところがお釈迦様は、

「汝らに法鏡(ほうきょう)を授けるであろう」

とズバリ一言で喝破なされています。

 

「法」とは中国の言葉ですが、

インドのサンスクリット語で「ダルマ」、

日本の言葉では「真実」という意味になります。

 

法鏡とは、

真実の自己を映す鏡ということです。

つまり、

「仏教を聞く」ことが、

「ありのままの自己を知る」

ということになります。

 

私たちは、

自分のことは自分が一番よく分かっている

と思っていますが、

果たして本当にそうでしょうか?

 

自分のことが分かっていたら、人間関係に悩んだり、

苦しんだりすることがあるでしょうか。

 

死んだら「自分の魂」はどこへ行くのか?

知っている人はあるでしょうか。

 

名前や肩書きや、地位や名声、

そしてこの身体は、いつまでもあるものではありません。

いつかは必ず無くなるものであり、

死ねばすべて、自分のものではなくなります。

 

私たちが「自分」だと思っているものは、

今生きている間だけの借り物にすぎません。

 

仏教で、「真実の私」とはどのように説かれているのでしょうか?