生きる意味ってなんですか?

~その答えは仏教にありました~

働く意味が分からない④

世界20カ国以上を旅しながらも、

自分の生きる意味や、働く意味が見出せずにいました。

 

旅をするのは好きだし、旅を仕事にするというのも考えました。

アフィリエイトなど広告収入で、旅をしながら稼ぐという方法もありました。

 

しかし、一生旅をして暮らすというのは私のやりたいことではないような気がしたし、

旅を仕事にすることで、旅自体が嫌いになってしまうのではないか

という怖さもありました。

 

結局モヤモヤしたまま過ごしていたのですが、ある日、

いろいろなご縁があって、富山市で開催されていた仏教講座に参加しました。

 

私の「仏教」に対するイメージはもともと悪いものではありませんでしたが、

葬儀の時に聞くお寺の話は、少し難しいと感じていました。

いいことは言っているのだが、いまいち納得できない。

きれいごとのように思っていました。

 

ところが、その仏教講座へ行き、目からウロコでした。

 

私の知りたいことが、すべて仏教に答えられていたのです。

 

Q.「何のために働くのですか?」

私「生きるためです。」

Q.「生きて何をするのですか?」

私「それは人それぞれ、楽しいことをして満足して死ねたらいいと思います。」

Q.「では、人生で一体なにをしたら満足して死ねるのでしょう?」

私「・・・」

 

まさに私が求めていたのは、

「自分はこれをするために生まれてきたんだ!」

と言えるような目的でした。

 

しかし、世界中を探しても自分が満足できるようなものは見つからずに

私はいったい何のために生きているんだろうと迷っていたときに

このような質問をされ、だまってしまいました。

 

ところが、

「仏教には、その人生の目的がハッキリ説かれているのですよ」

という言葉に、

「え?どういうこと?」

 

「人生の目的って、自分で見つけるものじゃないの?」

「お釈迦さまがすでに説かれている?」

 

どういうことかよく分からないモヤモヤした気持ちと、

もしかしたら仏教に私の求めている答えがあるのかもしれないという希望で、

私は講座に何度も通うことになりました。

 

私が参加した仏教講座です↓

Buddhismアカデミー ~仏教をまなぶ富山のイベントサークル~

 

 

 

 

働く意味がわからない③

私が世界を旅している中で、「働く」ということに関して

とても印象に残った国がありました。

 

インドです。

 

インドといえば、古くから『カースト制度』と呼ばれる身分差別がある国です。

もともとカースト制というのは、支配者階級が労働者階級を支配するために

作り上げられた非常に不平等な仕組みです。

 

1950年にはカースト制による差別は形式上、廃止ということになっていますが、

実際には身分差別がいまだに残っているのが現実でした。

 

カーストの階級によって、就ける仕事と就けない仕事があり、

アウトカースト(不可触民)と呼ばれる人たちにおいては、仕事にさえ就けない

 

という差別が少し前まで残っていたそうです。

 

このカーストから抜け出すには、

 

①この世はあきらめて、来世に期待する。

ヒンドゥー教では、ガンジス河で死ぬと来世はよい階級に生まれられる

 と信じられている)

 

②改宗する。ヒンドゥー教徒をやめれば、カーストは適用されないそうです。

(インドでは、イスラム教やキリスト教、仏教などに改宗する人が増えているそう)

 

③IT産業で働く

(コンピュータなどのIT産業は、昔はなかった職業のため、

 カーストが適用されないのです。

 だから身分の低い人でも就ける仕事となり、

 インドでITが爆発的に発達したのはこのためです。)

 

私がインドを旅したときも、IT系で活躍している方にたくさんお会いしました。

 

しかしながら、道を歩いていると、

あきらかに働いていない人たちも大勢いました。

 

昼間から集まり、ガンジス河を見ながらチャイを飲んでおしゃべりする男たち。

働かずに修行をしながら死を待つ「サドゥー」と呼ばれる人たち。

そして、ホームレスや物乞い。

 

現地の人に聞いてみると、

「インドでは働かなくても生きていける。

 ホームレスに、施しをする人が必ずいるから。

 だから働ける人も働いていない。

 人に施しをすると、来世はいいところに生まれられると皆信じているから。」

 

働くのは生きるため

 

と思っていたけれど、

インドのように働かなくても生きられる国もある。

一生懸命働いたとしても、私たちはいつまでも生きていられるわけではない。

いつかは必ず死ぬのである。

 

旅に出て、ますます「働く意味」「生きる意味」が分からなくなってしまったのです。

 

 

働く意味がわからない②

「仕事やだなぁ」

 

と言うと、

 

「やりたい仕事をやればいいじゃない!」

 

と言う人がいます。

 

もちろん、好きなことでお金が稼げたらそんなに嬉しいことはありませんので、

それを実現されている方は本当に努力なさっているのだと尊敬します。

 

しかし、そもそもやりたい仕事がない人はどうしたらよいのでしょう。

 

仕事は仕事と割り切って、自分の趣味や好きなことに時間をそそぐ。

 

私はこのタイプで、休みの日や仕事が終わった後の時間は、

好きなことをやろうと、いろいろ挑戦していました。

 

読書、映画、美術館めぐり、山登り、ダンス、ヨガ、スノボ、ボルダリング

自己啓発系のセミナーに参加したり、哲学の本を読みあさったり、

とにかく人と会ってたくさん話を聞いたり。

 

最初は楽しかったのですが、結局何をやっても長続きせず、

想像していたほどの喜びもなく、

何をやっても満足しない自分に、だんだんと嫌気がさしてきました。

 

人が集まるところにいくと、逆に孤独を感じるようになり、家に帰ってから、

「私、何しにいったんだろう。」

と涙が出てくるようになりました。

 

「きっと自分が求めているものは、日本にはない」

 

そう思った私は、ひとり旅に出ようと決めました。

 

旅先に選ぶ国は、アジアや中東・南米など発展途上国と呼ばれる国がほとんどでした。

特にこだわっていたわけではなく、なぜか魅かれるのはそんな国ばかりで、

普通の観光客が訪れるようなヨーロッパやハワイや先進国には全く興味がわきませんでした。

 

平和ぼけしていた私は刺激を求めていたし、

日本が忘れてしまった何かを求めていたのかもしれないし、

「途上国を一人で旅してきた」

ということで、強い自分になりたかったのかもしれません。

人にすごいね!と認められたかったのかもしれません。

 

20カ国以上を旅してみた結論。

 

世界に私の求めている答えはありませんでした。

つまり、

「働く意味ってなに?」

「生きる意味ってなに?」

の答えです。

 

でも、旅に出て本当に良かったと思います。

 

なぜなら旅に出なければ、日本に帰ってきて仏教に出会うこともなかったからです。

私がずっと求めていたものが、まさか仏教に説かれているとは思いもしませんでした。

人類がずっと長い間、求めても求めてもわからなかった答えを、

すでに2600年も前からお釈迦さまが答えを出されていたのです。

働く意味がわからない①

「働く意味がわからない」

「このまま一生、この仕事をして人生終わっていくのかな・・・」

 

そう思ったことはありませんか?

 

私は毎日そう思っていました。

 

私は3度ほど転職をしていますが、最初に就職したのが「葬儀会社」でした。

人の死に向き合い、人生の最後を送り出す仕事にやりがいを感じていたし、

特殊な仕事柄、給料も悪くありませんでした。

 

しかし、朝6時から夜11時まで必死に働き、休日にも仕事の電話が入ります。

死は待ったなしにやってくるからです。

 

家に帰ったらくたくたで、食事をして寝るだけ。

そんな毎日の繰り返し。

一休さんの言葉通りでした。

 

世の中は食うて糞して寝て起きて、 
さて、その後は、死ぬるばかりよ。 (一休宗純

 

休みが不定のため、友達ともだんだん距離を置くようになり、

人と連絡を取ることすら億劫に感じるようになりました。

 

今思うと鬱寸前だったと思います。

 

このまま一生終わっていくのかな・・・

そう思っていた時に、ロシア語を話せる経験を生かして働かないか?

というお誘いがあり、葬儀会社をやめ、思い切って転職しました。

 

前職で、「死」と向き合う仕事をしていたため、

自分なりの死生観を作り上げていました。

 

「死んだら終わり。無になる。」

「どうせ死ぬなら、人生思いっきり楽しんでやろう!」

 

残業もなく、17時には必ず帰れたので、

アフターファイブは好きな趣味や勉強など思う存分できました。

今までできなかったことが自由にできるようになった解放感で、

最初こそ「人生は楽しんだもん勝ち!!!」

なんて思っていましたが、

そんなものは長くは続きませんでした。

 

好きなことをしていたとしても、

いつの間にか、また同じ毎日の繰り返しになっていたのです・・・

 

このままじゃダメだ。

変わらなければ。

人とは違うなにかをしなければ。

人生を変えるような感動がほしい。

 

そう思った私は、世界へ飛び出しました。

本当の仏教とは?

本当の仏教とは何か?

正しい仏教とは何か?

 

仏教に関心のある方や、独学で学ばれた方に、

こんな質問をされることがあります。

 

世間のほとんどの人が仏教に抱くイメージは、

・葬式、法事、寺

・修行、座禅、ヨガ

・人間関係の悩みや、欲や怒りの抑え方を教えるもの

 

などです。

 

「拝めば病気を治してくれる」

「念仏となえれば借金が無くなる」

それが仏教だと教えるとんでもない人もいるようです。

 

本当の仏教とは、

「苦悩の根元」を断ち切る『絶対の幸福』

を教えたものです。

 

「枝葉の苦しみ」を減らそうとする『相対の幸福』しか教えていないのは、

本当の仏教とはいえません。それでは本当の幸せにはなれないのですから。

 

世界と比べても物質的に豊かな日本が、自殺者3万人。

全く幸せになっていないことからも明らかです。

本当の幸せとは何か、誰も教えていないからです。

 

苦悩の根元 = 無明の闇 = 疑情 

それを阿弥陀仏の本願によって断ち切っていただくこと

 

これが、本当の幸せになる方法であり、私たちの人生の目的、つまり生きる意味です。

 

そして仏教を説かれた目的も、実はただこれ一つなのです。

 

私たちを本当の幸せに導く正しい仏教の先生(善知識)

出会えるかどうかが大きなカギを握ります。

 

絶対の幸福になったとき、

お金がなくても、家族がいなくても、たとえ病気で臨終にいたとしても、

ただ一人、

 

「人間に生まれてよかった!」

「自分はこの幸せになるために生まれてきたのだ!」

 

という喜びに、誰でもなれるとお釈迦さまもおっしゃっています。

 

そんな幸せになるまで、苦しくても生き抜くこと、

そして仏教を真剣に聴聞していくことが

本当の幸せへの最短の近道です。

死にたいと思っている人へ、お釈迦さまからのメッセージ

私たち人間が、

みな求めているのが「幸せ」です。

 

すべての人が、幸せになりたい、不幸になりたくない、

と思って一生懸命生きています。

 

しかし、生きていてもいいことがあるとは思えず、

こんな苦しい人生ならいっそ死んだほうがまし。

そう思って、自ら命をたつ人は絶えません。

 

自殺をする勇気はないけど、

ただなんとなく、死ぬのを待つ人生。

そんな人は少なくないでしょう。

 

実は「死にたい」と思う心の裏には

「生きたい」という本音が隠されているのです。

 

死にたいと思うのも、幸せを求めてのこと。

死んだほうが、生きている今の苦しみよりはマシだろう。

今よりは幸せになれるんじゃないかと思うからです。

 

それくらいに生きるというのは辛いことなのです。

 

「人生は苦なり」(釈迦)

 

いじめられて辛いから

仕事が辛いから

病気で苦しいから

人間関係に疲れたから

 

「死にたい」と思う理由はいろいろあるように思いますが、

つきつめると、

自ら死を選ぶ理由は全人類共通

と仏教では言われます。

 

「なんのために生きるのか」

「死んだらどうなるのか」 

分からない心

 

これが、自殺をする本当の理由であると答えられています。

 

仏教の言葉で『無明の闇(むみょうのやみ)』といいます。

 

もちろん私たちに、

そんな闇が自分の心にあるという意識はありませんが、

「なぜ生きる」のかが分からないから、

自殺もするし、誰も自殺を止めることができないのです。

自分の命の意味が分からなければ、

当然、他人の命の尊さもわかりません。

人を殺しても、なぜそれがダメなのか、実は誰も知りません。

 

逆にいえば、「なぜ生きる」の答えさえわかれば、

命の尊さがハッキリわかります。

『無明の闇』は晴らすことができるのです。

 

その答えひとつを説かれたのが仏教だからです。

 

2600年前のインド、お釈迦さまの時代にも、

生きるのが辛く、自殺をしようとする人はいました。

 

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釈尊(釈迦)が、托鉢の道中でのことである。

大きな橋の上で、

辺りをはばかりながら一人の娘が、たもとへ石を入れている。


 自殺の準備に違いない。


娘のそばまで行かれた釈尊は、優しくその訳を尋ねられた。

相手がお釈迦さまと分かった娘は、

心を開いて苦しみのすべてを打ち明けた。

 

「お恥ずかしいことですが、

私はある人を愛しましたが、捨てられてしまいました。

世間の目は冷たく、

やがて生まれてくるおなかの子供の将来などを考えますと、

いっそ死んだほうがどんなにましだろうと苦しみます。

こんな私を哀れに思われましたら、どうかこのまま死なせてくださいませ」

 

と、よよと泣き崩れた。

 

釈尊は哀れに思われ、こう諭された。

 

 不憫なそなたには、例えをもって話そう。


 「ある所に、毎日、荷物を満載した車を、

朝から晩まで引かねばならぬ牛がいた。

つくづくその牛は思ったのだ。


『なぜオレは、毎日こんなに苦しまねばならぬのか。

一体自分を苦しめているものは何なのか』。


そして、


『そうだ。オレを苦しめているのは間違いなくこの車だ。

この車さえなければ、オレは苦しまなくてもよいのだ。

この車を壊そう』。


 牛はそう決意した。
 

ある日、猛然と走って大きな石に車を打ち当て、

木っ端微塵に壊してしまったのだ。

 

それを知った飼い主は驚いた。


こんな乱暴な牛には、余程頑丈な車でなければ、また壊される。


やがて飼い主は、鋼鉄製の車を造ってきた。

それは今までの車の何十倍の重さであった。

 

 

自殺を止められた釈尊の話

 

 

その車に満載した重荷を、今までのように毎日引かせられ、

以前の何百倍も苦しむようになった牛は、

今更壊すこともできず、深く後悔したが、

後の祭りであった。

 

牛は、自分を苦しめているのは車だと考え、

この車さえ壊せば、自分は苦しまなくてもよいのだと思った。

 

それと同じように、

そなたはこの肉体さえ壊せば、苦しみから解放され、

楽になれると思っているのだろう。


そなたには分からないだろうが、

死ねばもっと恐ろしい苦しみの世界へ入っていかねばならないのだよ。

 

その苦しみは、この世のどんな苦しみよりも、

大きくて深い苦しみである。

そなたは、その一大事の後生を知らないのだ」

 

そして釈尊は、

すべての人に、後生の一大事のあることを、諄々と教えられた。

 

死んだらどうなるのか

 

娘は、自分の愚かな考えを深く後悔し、

釈尊の教えを真剣に聞くようになり、

幸せな生涯を生き抜いたという。

 

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お釈迦さまが、

「そなたには分からないだろうが」

と言われているとおり、

私たち人間に、死んだ後の苦しみは分かりません。

 

死んで帰ってきた人は誰もいないのですから、

わかりようもありません。

 

人間の智慧は浅いので、

今生きている目先のことしか分からないのが私たちです。

 

一方、お釈迦さまは、厳しい修行の末、

仏という「さとり」(大宇宙の真理)を得られて、

過去・現在・未来と永遠の生命が続いていくことを

発見されました。

 

そして、

私たちに『後生の一大事』のあることを教えてくださっているのです。

 

自殺をしても、

あの牛のように、今よりもっと辛い苦しみが待っているだけです。

 

苦しくても生きなければならないのは、

生きている間に、

「人間に生まれてきて良かった!!!」

と心から喜べる身になるためです。

 

仏教を聞けば、どんな人も必ずその身になることができます。

 

その生命の大歓喜が起こるまでは、

根気強く、仏教を聞いてください。

 

 

仏法を聞いて、聞いて、聞きぬいたときに、

はっきり救われます。

 

「生きていて良かった」

と心から思えるところまで、聴聞を続けて下さい。

親の大恩⑩ いくつになっても子供はかわいい

お釈迦様のとかれた『父母恩重経』の中に

親の恩が10に分けて細かく教えられていますが、

今回はその最後の10個目です。

 

究竟憐愍(くきょうれんみん)の恩 

 

これはどんな状況になっても、

親は子供のことを思い、憐れむご恩です。

 

親は七十、八十の老境に入っても

子供をあわれみ、慈しむ。

その情は終生絶える間もなく、

あたかも影の形に添うがごとく、

親の心は子供から離れることはないのです。

 

「己生ある間は、子の身に代らんことを念い、

己死に去りて後には、子の身を護らんことを願う」

 

と『父母恩重経』にはあります。

 

姥捨て山伝説の中に、

自分をかついで山に捨てに行く子供が、

帰り道迷わないかを案じて、木の枝を折って目印をつける

という場面があります。

 

どんな状況でも自分よりも子供という親心が描かれています。

 

子供が大きな罪を犯し、刑務所に入っても、

心の中では見捨てることができない親心です。

 

子供が大きな病にかかれば、

いえ、たんなる風邪だとしても、

親は、自分が変わってやりたいと思うものです。