「宗教」=「信じる」なのか?
宗教というと、
神様・仏様、自然、有り難いシンボルなど、
何か人間の力の及ばないすごいものを「信じる」こと
と認識されていると思います。
神のご加護を信じる
自然のパワーを信じる
信じる者は救われる
では、その「信じる」とはどういうことでしょう?
「信じる」=「疑わない」
ことだと思っている人が多いですが、
よく考えてみると、
「信じる」という言葉の裏には必ず「疑い」があるのです。
つまり、
本当に疑いようのないことなら、
「信じる」とは使わないはずなのです。
例えば、
「私は女である。」
これはもう疑いようのない事実だと自分で分かっているので、
「私は女だと信じている」とは決して言いません。
疑いようのないことは
「知っている」と言います。
「私は女だと知っている」のです。
多くの宗教は、信じるものは救われるという教えですが、
「神を信じている」の裏には必ず「疑い」があるということです。
本当の意味では、神を信じ切れていないのです。
仏教ではどう言われているでしょうか。
私達人間に、真実を信じる心などは到底ない
と説かれています。
仏教では、私たち人間は皆、
「煩悩具足の凡夫(ぼんのうぐそくのぼんぶ)」である
と言われています。
大晦日、お寺で除夜の鐘が108回打ち鳴らされますが、
あれは私たち人間の心にある煩悩の数です。
どんなに素晴らしいと言われている人にも必ず108個の煩悩がある
と仏教では説かれています。
私たちは、
煩悩(欲、怒り、ねたみそねみの心)のかたまり、
煩悩100%で出来ているのが、
人間の真の姿だということです。
そんな、
自分の欲を満たすことしか考えていない私たち人間が、
真実を信じなさいと言われて信じられるような
「まことの心」など持っていないと説くのが、
仏教です。
仏教は、かなり、ストイックです。
でも、それが事実であることは、
少し真面目に自分を見つめてみると分かるはずです。
事実を事実として見つめるのが仏教。
かなり論理的な教えです。
信じる心ぐらい持ってるわ!
とうぬぼれているのが私たち。
そんなうぬぼれ心で信じているうちは、
絶対に幸せにはなれないと
仏教では言われています。
煩悩だらけの私たちが、
どうしたら本当の信心(本当の幸せ)を得られるのか?
それを相手に合わせて説いていかれたのが、
今日、7000冊以上のお経となって残るお釈迦様の教えです。