生きる意味ってなんですか?

~その答えは仏教にありました~

幸せには2種類ある?

どんな人にも、

これ一つ果たさなければならない

「人生の目的」がある。

 

と、仏教では言われています。

 

その目的とは、

「幸せ」になることです。

 

もちろん、不幸になるために生きている人などはいませんので、

幸せになるために頑張って生きていることは間違いありません。

 

「苦労するのが好き」

と言っている人でさえ、

その苦労の先に自分の成長や喜びがあるから、頑張るのです。

苦労だけで終わると分かっていたら、

苦労などしたくはありません。

 

自殺をしようとしている人でさえ、

「死んだほうが今よりは幸せだろう」

と思っての選択です。

 

しかし、

上手に幸せを手に入れた人はよいが、

不運な人は結局幸せになれないじゃないか!

 

と思ってしまうこともあります。

 

それは、幸せに2種類あることを知らないからです。

 

仏教では、

幸せといっても、2種類の幸せがあると言われます。

 

相対の幸福 と 絶対の幸福

 

私たちが『幸せ』と聞いて思いつくもの、

 結婚・家族・健康・仕事・お金・美味しいもの・趣味・・・

 

それらはすべて、「相対の幸福」です。

 

なにかと比べることで感じる幸せです。

言いかえれば、欲を満たす幸せです。

 

1人でいるよりも、好きな人と一緒にいるほうが楽しい

お金がないよりも、あったほうが好きなものを買える

病気になって初めてわかる健康の有り難さ

昔の自分にくらべたら、今は断然、幸せ

 

私たち人間は、なにかと比べないと、

それが幸せなのか、不幸なのか、

分からないのです。

 

例えば、

「家があること」

これを毎日幸せだと思っている人はいないでしょう。

 

火事や災害にあって、家をなくしたり、

長い病院生活から帰ってきたとき初めて、

「家があるって幸せだな」

「家があるって有り難いな」

と分かるのです。

 

なにかと比べて感じる幸せなので、

人の数だけ幸せの感じ方は違います。

 

また、相対の幸福は、

最初は幸せと思っていても、

それがいつまで続くかわからない、

あればあるだけ欲しくなり、キリがない、

「死」が来たら総崩れという特徴があります。

 

まことに死せんときは、予てたのみおきつる妻子も財宝も、

わが身には一つも相添うことあるべからず。

されば死出の山路のすえ、三塗の大河をば、

唯一人こそ行きなんずれ

蓮如上人『御文章』一帖目十一通)

 

 

お金や財産、名誉や家族は、

幸せの象徴とされていますが、

どんなに頑張ってそれらを手に入れても、

死んだらひとつも持っていけない。

たった一人で死んでいかなければならない。

 

蓮如上人は言われています。

 

いつ崩れるか分からない不安定な幸せを求めつづけ、

結局は満足したということはなく死んでいく。

 

一方、仏教で教えられる

「絶対の幸福」とは、

完成(ゴール)があり、死が来ても崩れない幸せです。

 

800年前、

日本全国に真実の仏教を広められた

親鸞聖人の教えも同じです。

 

平生業成(へいぜいごうじょう)

 

(今生きている間に、

成し遂げることができる大事業(人生の目的)がある。

だから早く完成しなさいよ。)

 

というのが、親鸞聖人ご一生90年の教えの一枚看板です。

 

果たして本当にそんな幸せがあるのか、

そんなものがあるとは信じられないし、

どんな幸せか想像もつかない。

 

そう思うのは当然です。

 

だから、

仏教は「疑いながら」聞いていかなければなりません。

 

とにかく真実だから信じなさい、とか

心をコントロールしていく、とか

仏教はそういう教えでは決してありません。

 

世の中には真実でないことが溢れていますので、

容易に信じてしまうことは非常に危険です。

 

おかしな宗教を信じてしまっては、

結局本当の幸せにはなれません。

仏教といわれるものでさえ、どれが真実かわからないくらい

自分勝手な教えが溢れています。

 

信じよう信じようとして得られる幸せではありません。

まず仏教を聞き、あきらかに物事を見ていくことが大切です。

 

仏教は聴聞に極まる

 

必ず疑いが晴れ、

絶対の幸福というものがハッキリ分かる時があります。

そこまで聞きぬかせていただきましょう。

 

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