偽善者とは?
「人」の「為」
と書いて、
「偽」という漢字になります。
人のために何かをすることは善いことですが、
「自分のため」なのに「人のため」といってやることは偽善。
例えば、あなたが満員電車でお年寄りに席を譲ったとします。
すると相手は、「有り難う」も言わず、
文句をつけてきたらどうですか?
こちらは親切でやってあげたのに!
と腹が立ちます。
隣の家にクッキーを持って行って、
「ありがとう」の一言もなかったらどうでしょう?
「持って行かなければよかった!
もう二度と持っていくか!」
と思います。
つまり、自分が勝手にやったことなのに、
実は見返りや感謝の言葉を期待している自分がいるのです。
私たちには、
してもらったことはすぐに忘れてしまうのに、
「してやった」ことはいつまでも覚えている
情けない心があるのだと言われます。
そんな私たちのやる善を、
親鸞聖人は「雑毒の善(毒の混じった善)」だと言われます。
私たちのやる善は、
仏さまの目から見ればすべて毒の混じった善なのです。
では、そんな善ならばやる必要がないのか?
という意見が必ず出てきますが、
これは、仏教で決して聞き誤ってはならないところです。
偽であろうが毒であろうが、善は善。
善因善果のとおり、
善いタネをまけば必ず善い結果が自分に返ってきます。
「毒の混じった善ならば、しないほうがまし。」
と悪を続ければ、
自分の人生が悪くなるだけです。
見返りを求めない善を真剣に求め、実行する、
その姿勢が最も大切です。
「知った分かった」と自惚れて、
実践しない人に結果はあらわれません。
善をやった人にしか見えてこない心がそこにあります。
まことの善や功徳など、微塵も積めない自分であったと知らされるまで、
仏教を聞くことが「本当の幸せ」につながります。