生きる意味ってなんですか?

~その答えは仏教にありました~

なぜ自殺してはいけないのか?①

人生は苦なり

 

とお釈迦さまは言われました。

 

人生というのは苦しみ悩みの連続で、

生きていくことは本当に大変なことです。

 

あまりにも大きな壁にぶちあたったり、絶望したとき、

私たちは、いっそのこと死んでしまいたいとさえ思います。

 

死にたいとは思わないけれど、

消えてしまいたい。

人の記憶から消えたい。

無になりたい。

死んで楽になりたい。リセットしたい。

 

そんなふうに思っている人がどれだけいるでしょうか。

 

こんなに辛いなら、生まれてこなければよかった

と親をうらんだりもします。

 

では、なぜ死んではいけないのでしょうか?

 

私自身は、

そんなに苦しいなら、死んでもいいんじゃないか

迷惑をかけなければ自殺してもいいんじゃないか

と、かつては思っていました。

 

今、生きているのが苦しくて苦しくてしょうがなくて、

そこから解放されるならば、死という選択もありなのではないかと

思っていました。

ただ、

家族が悲しむことを考えると、

自殺を肯定してはいけないような気がしていました。

 

そんな時、

自殺はなぜいけないのか、深く考えさせられる出来事がありました。

 

葬儀屋で働いていたある日のこと。

 

20代の若い女性が亡くなったということで、納棺師としてそのご自宅へ向かいました。

なんだか嫌な予感がしながらご自宅へ伺うと、

亡くなったのは、私の学生時代の後輩でした。

 

 

布団に横たわるのは、変わり果てた彼女の姿でした。

私と一歳しか変わらない女の子。

もともとは割とふっくらしていた子でしたが、

やせ細り、冷たく、真っ白になっていました。

 

私は涙が出そうになるのを必死でこらえながら、

彼女を白装束に着替えさせ、化粧をほどこしました。

 

納棺をしながら、いつもと違う異様な雰囲気を感じていました。

若い女の子が亡くなったというのに、

親族からは雑談や笑い声が聞こえるのです。

この家族、なんだかおかしい。

 

納棺の儀式のときは、

たとえ100歳で亡くなったおばあちゃんでさえ、

遺族は神妙な空気につつまれます。

死というのはそれだけ、厳しく辛いものだからでしょう。

 

ところが、

彼女が亡くなったときは、誰も近くに寄ってこないし、

棺に納めるときも、なかなか親族が手伝ってくれませんでした。

 

あとから分かったことですが、

彼女の両親は離婚し、子供を置いて2人とも失踪してしまったそうです。

そこに集まっていた中に家族はおらず、親族だけでした。

親戚をたらい回しにされた彼女は、自分の居場所がなくなり、

自殺したのではないか

という話でした。

 

もちろん死んだ理由は、彼女にしか分かりません。

 

自分の軽四の車の中で練炭をたいたようでしたが、

死因は「凍死」でした。

 

つまり、練炭で自殺しようとしたけれど、

やっぱり苦しくなって、

車の外に出たみたいです。

ところが冬だったので、外で冷たくなって死んでいた

ということでした。

 

やっぱり彼女は死にたくなかったんだと思います。

死にたいけど、死にたくなかったんだと思います。

 

どんな気持ちで死んでいったんだろう

誰にも分かってもらえない孤独の中で死んでいくのは

どんなに辛かっただろう

 

死んでも誰も悲しまない

彼女は楽になったから良かった

とは到底思えませんでした。

 

そのことがあってから、

なぜ自殺はいけないのか?

なぜ死んではいけないのか?

なぜ人を殺してはいけないのか?

死んだらほんとに無になるのか?

 

そういうことを真剣に考えるようになりました。

 

ただ、

だめなものはだめ

命は尊いものだから

死んだら人が悲しむから

などという気休めの答えには納得がいきませんでした。

 

いろいろ答えを探し回った結果、

唯一納得のできる、はっきりした答えを出していたのは

仏教だけでした。