生きる意味ってなんですか?

~その答えは仏教にありました~

仏教は暗いのか?

「仏教を聞くと、暗くなる」

「私はもっと明るく生きたいのに、仏教ではマイナスなことしか言われない」

「仏教は死のことばかり」

 

といった意見がありますが、

これは、

まだ仏教の片側しか知らない意見だと思います。

 

確かに、

仏教では「人間の実相」

つまり自分の本当の姿が次のように説かれていますので、

仏教に厳しいイメージを持つのも理解できます。

 

心常念悪(心は常に悪を念じ)

口常言悪(口は常に悪を言い)

身常行悪(身体は常に悪を行い)

曽無一善(かつて一善も無し)        

by『大無量寿経

 

お釈迦様は、

すべての人間の本当の姿がこのような極悪人だと説かれているのです。

一人も残らず、です。

 

「あなたもこのような極悪人なのですよ」

 

と言われて反発しない人はいないと思います。

 

「ときどき悪いことは考えたり、

言ったりすることはあるかもしれないが、

常にではないだろう。」

「善のひとつくらいは頑張れば出来る」

 

と思っているのが私たちです。

 

確かに自分を否定されているようで、

仏教は聞けば聞くほど辛くなると思う人もいるでしょう。

 

しかし、自分が一体どんな者なのか、

真実の姿を知らなければ、

真実の幸せにはなれないと言われます。

 

例えて言うならば、

 

難病の患者がいる

・その難病を治すがすでに開発されている

・その薬さえ飲めば、その難病は必ず治る

・ところが、患者は自分が難病であることを認めず、薬を飲まない

・医者や周りのすすめにも関わらず、薬を飲まなかった患者は苦しみ、

結局んでしまう

 

この患者が死んでしまった真の原因は、

難病ではなく、

自分が難病だと認めなかったことである。

 

私たち人間も、

この難病患者と同じように、

「心の病」にかかった病人だといわれます。

(※心の病とは、うつ病精神疾患のような病気のことではなく、

全人類が迷い苦しんでいる姿のことです)

 

この心の病を治す薬はできあがっていて、

薬さえ飲めば治って、幸せになれるのに、

自分が心の病にかかっていること

認めようとしないから苦しんでいるのです。

 

仏教では、

自分がどんな者であるかをあきらかに見てもらう(諦観)ために、

人間の実相という、たとえ話を説かれています。

 

自分の真の姿を知り、

どんな極悪人をも絶対の幸福に救う教えであった!

というところまで、

聞かせていただくことが仏教の決勝点です。

心で思っていることを、すべて言葉にできるか?

仏教では、

人間の作る罪悪を「十悪」にまとめられ、

そのうち最も恐ろしい「欲・怒り・ねたみそねみ」の心を見てきました。

 

これらの心が、

口から出る(言葉になる)と次の4つの罪悪となります。

 

④綺語(きご)・・・心にもないお世辞を言うこと。

⑤両舌(りょうぜつ)・・・

二枚舌とも言い、仲の良い人の間を仲たがいさせるようなことを言うこと。

こっちではあの人の文句を言い、あっちではこの人の文句を言う。

学校や会社などでもよく見る光景。

⑥悪口(あっこう)・・・わるぐち、中傷。

⑦妄語(もうご)・・・ウソをつく。事実無根のデタラメを言うこと。

 

どれも、

人生で一度もやったことはない、

という人はいないのではないでしょうか。

 

また、自分もこれらの言葉で深く傷ついた経験がある

という人が多いと思います。

 

言った方は何気なく言った言葉が、

言われた本人には一生心の傷となって残ることもあります。

 

お釈迦さまは、

私たち人間の心と口の関係を次のように説いています。

 

心口各異 言念無実 (しんくかくい ごんねんむじつ) 

by『大無量寿経

 

(心で思っていることと、実際口にしている言葉は全く異なる。

どこにも真実はない。)

 

例えば、

知り合いのお母さんに会い、その赤ちゃんに対して

「お世辞にも可愛いとは言えない。どちらの親に似たのだろう、可愛そうに・・・」

と、心では思っていても、

「まぁ、可愛らしい赤ちゃんね!」

と言ったりします。

 

「可愛くない赤ちゃんね」

などと正直に言えば、

最低な人だと思われ、その方との人間関係は終わってしまいます。

 

正直になることが良いこととされていますが、

すべての人が正直に行動していたら、社会はどうなるでしょうか。

 

私たちはいつも本音を隠すのに苦しんでいるのです。

隠さなければ生きていけないような、

見にくい本音が心にあるのです。

 

これから科学が発達して、

心の中が見えるシステムなんかが発明されれば、

この人間社会は恐ろしいことになるに違いありません・・・。

 

もちろん、

心で思っていることをそのまま口に出せばいいという訳ではありません。

 

悪因悪果の通り、

言ってしまえば、すべて自分に返ってきます。

 

そして、

悪いことを思わないようにしようと思っても、

思ってしまうのは、

人間だからです。

 

悪いと知らずにやってしまうのと、

悪いと知ってやるのでは、

結果が違います。

 

お釈迦さまは、

知って作る罪よりも、知らずに作る罪のほうが重い

と言われます。

 

悪いということを知らない人は、

同じあやまちを何度も繰り返し、罪を作り続けることになるからです。

実は、こちらのほうが可愛そうです。

 

悪いと分かっている人は、

無意識でもブレーキがかかるので、

そこまで大きな罪にはなっていかないのです。

 

自分もそういう罪をつくる人間だということを自覚し、

「あきらかに見ていく(諦観(たいかん))」ことが、

本当の幸せになる第一歩だといわれます。

最も恐ろしい、ねたみ・そねみ・嫉妬の心 ~愚痴~

私たち人間が作る「十悪」のうち

最初の3つが、

 

「貪欲・瞋恚・愚痴」三毒の煩悩。

 

その中でも特に恐ろしいとされるのが、

「愚痴(ねたみ・そねみ・嫉妬の心)」です。

 

が満たされなければ怒りになり、

怒っても勝てない相手には、

ねたみそねみの心が湧きあがります。

 

自分よりも勉強ができる、

仕事ができる、

運動ができる、

異性からモテる

何をやってもうまくいく

 

そんな相手に嫉妬して、

何か粗がないかと探し始めます。

 

自分の家よりも立派な家が隣に立つと、

ねたましく、文句をつけたくなる。

 

夫婦円満で、可愛い子供がいて

何の不満もない家庭を見ると

くやしくなる。

 

自分は成功者だと思っていても、

さらに成功している人を見ると負けた気がして、

その人に勝ちたい、もっともっと上にいきたい気持ちが出てくる。

 

自分はそんな卑しい心は持っていない

という人がいるかもしれませんが、

それは、その相手を自分より下等だと思っているからです。

 

自分が幸せな結婚をしていれば、

友達の結婚報告も喜べますが、

自分が婚活中や離婚したばかりだと、どうでしょう。

お祝いしたいのに素直に喜べない自分がいるのです。

 

人の幸せを素直に喜べない、

そんな心が自分にも他人にもあるのだと

いつも心に留めておかねばなりません。

 

もちろん、嫉妬の心は原動力にもなり得ます。

 

あの人を超えたいから、もっと頑張ろう。

私もあんな素敵な家に住みたいから、努力しよう。

 

しかし、愚痴の心から起こした行動では、本当の幸せにはなれません。

愚痴は悪因です。

 

愚痴というのは、=愚かな知恵のとおり、

「因果の道理」が分からないから起きる心である。

 

今、善い結果があらわれている人は、過去に良いタネまきをしてきているから。

今、悪い結果が自分にあらわれているのは、過去の自分の行いが悪かったから。

 

それが分からないから、

他人に善い結果があらわれているのをねたみ、

自分に悪い結果があらわれているのを認められないのです。

 

逆に言えば、

この因果の道理がハッキリ分かれば、

人に嫉妬するのをやめて

自分のタネまきに励むほうが賢い選択だと分かるでしょう。

 

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怒りのループにはまらないためには・・・ ~瞋恚~

お釈迦さまが、

人間の作る罪悪を10個にまとめられています。

 

その2つ目が、「瞋恚(しんに)」です。

 

あまり聞きなれない言葉だと思いますが、

怒りの心のことです。

 

怒りの心はどのようにして起きるのでしょうか?

 

十悪の1つ目である「欲」がさまたげられると

出てくるのが「怒り」です。

 

旦那に優しい言葉をかけてほしいのに、

冷たくされて腹が立つ。

子供が言うことを聞かないと、腹が立つ。

欲しい物が手に入らないと、腹が立つ。

 

怒りは無謀に始まり、後悔に終わる

 

と言われるように、

人間は一度かっとなったら理性を失い、

言ってはならないことを言い、

やってはいけないことをやってしまうものです。

 

後悔したときには、時すでに遅し。

 

たった一度の怒りで、

家族や会社、すべての信用を失ってしまった人がどれだけいるでしょうか。

 

そんな怒りが、

人の心にも、自分の心にもあるのだということを

いつも意識しておかなければなりません。

 

怒りのループにはまらないためにはどうしたらよいでしょうか?

 

自分がかっとなった時は、

かっとなった自分を、

出来るだけ客観視するように心がけること。

 

「あ、今私怒られているなぁ」

「腹が立っているんだなぁ」

 

と外から自分をみてあげましょう。

事実をありのままに見ることが、

怒りを爆発させないコツです。

 

寝てしまって、時間を置くのも効果があります。

話し合いをするときは、怒りの感情があるときはやめて、

数日たって落ち着いたときにするようにしましょう。

 

そして怒りには怒りで返さないこと。

 

不要な争いに巻き込まれないためには、

怒った人に「近づかない」ことが一番です。

 

冷たいと思うかもしれませんが、

一度かっとなると周りが何を言っても聞きません。

本人の熱が冷めるまで、待ってあげるほうが賢い選択です。

 

悪因悪果の通り、

「怒り」という悪因は、必ず悪果となって本人に返ってきます。

 

だから、

自分も腹が立つ時は

「その手には乗らぬぞ!」

と裏をかいて笑ってしまえばいいのです。

 

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十悪とは? ~欲の心~

仏教では、

「幸せになるためには悪をやめて善をしなさい」

と言われます。

 

では、悪とは何でしょうか?

 

お釈迦さまは、

私たち人間の作る罪悪を10個にまとめられています。

 

『十悪』

①貪欲(とんよく)

②瞋恚(しんに)

③愚痴(ぐち)

④綺語(きご)

⑤両舌(りょうぜつ)

⑥悪口(あっこう)

⑦妄語(もうご)

⑧殺生(せっしょう)

⑨偸盗(ちゅうとう)

⑩邪淫(じゃいん)

 

最初の、貪欲・瞋恚・愚痴は三毒の煩悩」といわれ、

108つの煩悩の中でも最も恐ろしい悪です。

 

私たちが悪人ときいて思い浮かべるのは、

人殺しや、ヒトラーのような虐殺者など、

いわゆる法律や道徳によって、罪とされる人たちです。

 

しかし仏教では、

実際に手をかけて人を殺したり、残虐な言葉で人を傷つけるよりも、

「心」で作る罪が最も重いとされます。

 

心で思うだけなら、

人に迷惑をかけないからいいじゃないか!

 

と思いますが、

まず最初に「心」で思うから、身体や言葉にでるのだと言われます。

 

心で思っていないのに、身体が勝手に動く人はいません。

心で思っていないのに、言葉が勝手に出る人はいません。

まず、心という火種があって、

身体や口へ火の粉がうつるのです。

 

だから、

善いことも悪いことも、心で思うことが最も重要とされます。

 

①貪欲とは、

底の知れない私たちの欲の心を言います。

 

あれが欲しい、これが欲しい、

どこに行きたい、

褒められたい、認められたい、

もっともっと・・・

 

あいつがいなければ、

あの人が失敗すれば、

あの人が死ねば・・・

 

親子、兄弟、親戚、恩人であっても、

自分の欲のためにはどんな恐ろしいことも考える心を持っている私たちです。

 

遺産相続で争ったり、

新しい恋人が出来て邪魔になった子供を母親が殺したり、

資源や領土を争って戦争したり・・・

 

すべて、欲の心が引き起こした惨劇です。

 

余裕があるときは、

自分はそんな悪いことはしないと、皆思っていますが、

切羽つまれば、何をしでかすか分からないのが人間です。

 

親鸞聖人のお言葉にもあります。

 

さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし。

(『歎異抄』)

 

因と縁がそろえば、

私たちはとんでもない恐ろしいこともするのです。

 

死ぬ時にはすべてを置いてこの世を去らねばならないのに、

いつまでたってもキリのない名誉と利益を求めて、

私たちは悪を作り続けています。

 

皆いつか必ず死ぬのに、

キリのないものを求める人生で良いのでしょうか?

 

求めても求めても求まらない欲の心を、

限りある寿命の中で満たそうとすることは、

じつは大変大きな矛盾ではないでしょうか?

 

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人生観を変える善のすすめ

仏教における善悪基準をもとに、日々生活していくと、

人生が変わるほどの結果をもたらすこともあります。

 

善行というと、

ボランティアとか寄付といった社会奉仕を想い浮かべますが、

仏教で最も大事にされるのは、

施す金額や量ではなく、

「どんな心」で行うかということです。

 

量より質。

 

形より心。

 

人からほめられたいとか、自分の利益を見越して、

恵まれない子供たちに多額の寄付をするよりも、

感謝の気持ちで、親へ一輪の花を送るほうが功徳が大きく、

善い結果があらわれる、

とされます。

 

家族や同僚、お客様に喜んでいただくために、

笑顔で挨拶をする。

 

助けてもらったり、何かをもらったら、

感謝の言葉や喜びの表情を惜しみなく表現する。

 

仏教の言葉で、

自分の利益ばかり求める心を「我利我利」といい、

 相手の幸せを願う心を「自利利他」といいます。

 

我利我利亡者では決して幸せになれません。

仏教は自利利他の教えです。

 

「利」とは「幸せ」のこと。

他人の幸せはそのまま自分の幸せとなるということです。

 

現代でも、

「利他の精神」といって、

松下幸之助氏や稲森和夫氏など

有名な経営者たちが理念としています。

 

「自利(自分の利益)」は、

意識しなくても常に考えているのが欲深い私たちですが、 

自分のことは忘れて、

ただひたすらに「利他」だけを考えていくことが、

結果的に大きな幸福をもたらす

 

ということは、成功者たちの例を見れば明らかです。

 

そういう気持ちを意識しながら、これからの人生を歩んでいくと、

見える世界が180度変わり、

まわりの人たちの心にも影響を及ぼしていくことになるでしょう。

 

自分の心を変えることで、

自分の見えている世界を変えられる、

素晴らしい教えです。

 

自分を変えたい

人生を変えたい

 

そう思っている人は、

まず、自利利他を心がけて日々生活をするところからスタートです。

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偽善者とは?

「人」の「為」

 

と書いて、

「偽」という漢字になります。

 

人のために何かをすることは善いことですが、

「自分のため」なのに「人のため」といってやることは偽善

 

例えば、あなたが満員電車でお年寄りに席を譲ったとします。

すると相手は、「有り難う」も言わず、

文句をつけてきたらどうですか?

 

こちらは親切でやってあげたのに!

と腹が立ちます。

 

隣の家にクッキーを持って行って、

「ありがとう」の一言もなかったらどうでしょう?

 

「持って行かなければよかった!

もう二度と持っていくか!」

と思います。

 

つまり、自分が勝手にやったことなのに、

実は見返りや感謝の言葉を期待している自分がいるのです。

 

私たちには、

してもらったことはすぐに忘れてしまうのに、

「してやった」ことはいつまでも覚えている

情けない心があるのだと言われます。

 

そんな私たちのやる善を、

親鸞聖人は「雑毒の善(毒の混じった善)」だと言われます。

 

私たちのやる善は、

仏さまの目から見ればすべて毒の混じった善なのです。

 

では、そんな善ならばやる必要がないのか?

 

という意見が必ず出てきますが、 

これは、仏教で決して聞き誤ってはならないところです。

 

偽であろうが毒であろうが、善は善。

 

善因善果のとおり、

善いタネをまけば必ず善い結果が自分に返ってきます。

 

「毒の混じった善ならば、しないほうがまし。」

と悪を続ければ、

自分の人生が悪くなるだけです。

 

見返りを求めない善を真剣に求め、実行する、

その姿勢が最も大切です。

 

「知った分かった」と自惚れて

実践しない人に結果はあらわれません。

 

善をやった人にしか見えてこない心がそこにあります。

 

まことの善や功徳など、微塵も積めない自分であったと知らされるまで、

仏教を聞くことが「本当の幸せ」につながります。

 

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