生きる意味ってなんですか?

~その答えは仏教にありました~

なぜ自殺してはいけないのか②

後輩が自殺をしたことをきっかけに、なぜ自殺をしてはいけないのか?ということを真剣に考えるようになりました。

 

この問いにはっきり答えを出しているのは、今のところ仏教だけであるという記事を以前書きました。

 

ananchangbuddhism.hatenablog.com

 

学校のホームルームや道徳の時間に、

人間の尊厳とか

なぜ命は尊い

などというテーマが論じられるようになっているそうです。

 

では、実際先生たちは、

「なぜ自殺をしてはいけないか?」

という問いに答えることができているのでしょうか。

 

かつて『朝まで生テレビ』という番組で、17歳の少年をパネラーとして集め、

世の知識者たちが話し合ったことがあります。

 

少年が

「じゃあ先生方に聞きたいのですが、なぜ人を殺してはいけないのですか?」

と聞くと、

なんでも流ちょうに答えるはずの評論家たちがみんなシーンとなってしまい、あわててコマーシャルに入ってしまうということがありました。

 

なぜ自殺をしてはいけないか?という問いと、

なぜ人を殺してはいけないか?という問いは、

一見まったく違う質問に聞こえますが、根っこの部分では全く同じです。

 


では、どんな答えが用意されているのでしょうか?

大きく分けて3つあります。

 

1.道徳的水準
2.社会的水準
3.哲学的水準

 

1.道徳的水準とは、倫理・道徳やモラルを基準として出る答えです。

 

例えば、

「なぜ人を殺してはいけないのですか?」

「ダメに決まってるだろ!ダメなものはダメ!そんなこと言うお前がおかしい」

 

これも一つの答えですが、その答えを正真正銘知りたいと思っている人にとっては納得のいかない答えでしょう。

 

2.社会的水準とは、社会学で説明できる答えです。

 

例えば、

「人を殺せば社会から罰せられる。死刑になるかもしれない。それが嫌なら殺しはやめなさい。」

 

一見理にかなっているようですが、この答えではもう止めようがないところまで私たちは来てしまっています。

 

自分の人生が大切だと思っている人を止めることはできるかもしれませんが、

もう自分の命なんてどうだっていい、

人を殺して自分も死にたい、

どうにでもなれ。

 

と思っている人には、少年法の改正もなんの役にも立ちません。

 

3.哲学的水準

 

いらない紙をやぶいても、何とも思いませんし、人からも何も言われません。

ところが、一万円札をやぶいたら、同じ気持ちでいられるでしょうか。

 

いらない紙はやぶけるのに、一万円札はやぶけない。

それは、私たちが一万円札に価値があると知っているからです。

 

命も同じです。

 

命に価値があることを知らないから、いとも簡単に人を殺したり、自ら命を落とす人がたえないのです。

命に価値があることをハッキリ知っている人は、めったなことで人を殺したり、死にたいなどと思うことはありません。

 

つまり、命の価値=生きる意味がはっきりしなければ、

なぜ自殺してはいけないか

なぜ人を殺してはいけないか

この問いに答えることはできない。

 

これが哲学的水準です。

 

つまり、長い長い歴史のある哲学でも、ハッキリした答えはでていないということになります。

 

そんな中、

なぜ自殺をしてはいけないか

なぜ人を殺してはいけないか

なぜ苦しくても生きなければならないのか

なぜ命は尊いのか

これら生きる意味について唯一ハッキリ答えられているのが仏教です。

 

むしろ、仏教とは「なぜ生きる」の答えひとつを説かれたものなのです。

 

そして「なぜ生きる」の答えを知るにはまず、

仏教で説かれる「苦悩の根元」を知らなければなりません。

 

仏教で、私たちの苦しみの元はなんだ言われているのでしょうか。