後悔なく臨終を迎える秘訣とは
私たちはみな、明日があると信じて生きています。
しかし、「明日がある」というのは果たして真実でしょうか?
今日交通事故で亡くなった人、病気で亡くなった人に、明日という日はありませんでした。
自分の命は明日もある、1週間後もあると信じているので、手帳にスケジュールを書き込みます。
1か月後もあると信じているので、旅行の予定をたてます。
10年後もあると信じているので、老後や年金の心配をします。
結局自分はいつになっても死なないと、かんかんに信じ込み、本当に大切なことを後回しにし、いざ死を迎えた時には手遅れだ。
というのが私たち人間の姿だと仏教では教えられます。
いつまでも命があると思って生きる人は、だらだらと時間を過ごし、臨終に必ず後悔します。
今日が最後の日かもしれないと思って生きる人は、一瞬一瞬を大切にし、悔いなく臨終を迎えることができます。
いつまでも明日があると思って、のんきに生きている私たちに大事な警告をされているのが、仏教です。
浄土真宗の開祖といわれる親鸞聖人は、たった9歳で次のような衝撃的な歌を残しています。
明日ありと
思う心のあだ桜
夜半(よわ)に嵐の吹かぬものかは
(どんなに満開に咲く桜の花も、嵐がふけば一晩のうちに散ってしまいます。
人の命はその桜よりもはかないと聞いております。
明日もあると思うのは間違いです。)
4歳のときにお父さま、8歳のときにお母さまを亡くされた親鸞聖人は、幼くして天涯孤独の身となり、どれほど辛く寂しい思いをされたでしょう。
「次に死ぬのは自分の番だ、死んだらいったいどうなるのだろう」
いずれ自分にもやってくる大問題に悩み、この心の不安を解決したいと比叡山の仏教に救いを求めました。
当時、比叡山に入るには出家得度という僧侶になるための儀式を受けなければなりませんでした。
出家得度の儀式を受けたいという幼い親鸞聖人に対して、比叡山の座主である慈鎮和尚(じちんかしょう)が言われました。
「では、明日、得度の式をあげよう」
仏教界では最高権威である慈鎮和尚でさえ、無常を忘れてしまうのです。
明日があると思い込んでいる大人に対して、わずか9歳の親鸞聖人が先ほどの歌を書かれたので、人々は驚いたのです。
無常に気づくのは、大人も子供も関係ありません。
突然世を去った父母のように、明日があると信じていても裏切られるときがくる。
ぐずぐずしてはいられない。
無常を見つめられた親鸞聖人は、この深い深い不安を解決し、死ぬまでに果たさなければならない人生の目的を達成させようと血のにじむような仏道修行に入られたのでした。