生きる意味ってなんですか?

~その答えは仏教にありました~

親の大恩② 出産の激しい痛みに耐えてくれた母に感謝

お釈迦様は、

父母恩重経というお経の中に、

親の恩がどれほど深く有り難いものか、

10に分けて教えられています。

 

その「親の大恩十種」のニつ目が、臨生受苦の恩。

 

②臨生受苦の恩

 

これは母が出産のときに

激しい痛みを我慢して生んで下さったご恩です。

 

いよいよ月満ちて陣痛が起こり、

子供を産む時の苦しみは、

青竹を握ると、それを二つに押し割るほど激しいといわれます。

 

出産の苦しみを陣痛といいます。

 

陣は戦場のこと

男性にとって命をかける場所は戦場でしたが、

女性に取って命をかけるところが出産なので

陣痛というのでしょう。

 

男性には陣痛の痛みは耐えられないそうです。

 

ある学校では、

鼻の穴からスイカが出てくるほど苦しいと言っている

と聞いたことがあります。

 

父母恩重経』には、

「月満ち時到れば、業風催促して、偏身疼痛し、

骨節解体して、神心悩乱し、忽然として身を亡ぼす」

とあります。

 

我慢できないほどの痛み、苦しみ、

半狂乱になって、死ぬ思いで産んでくだされる母の様子が

分かります。

 

お釈迦さまのお母さま・マーヤー夫人は、

出産後七日目に亡くなられました。

 

お母様は、

まさに命がけでお釈迦様を生まれたのです。

激しい痛みに耐えて、産んだわが子と

別れなければならなかった母はどんなに辛かったことでしょう。

 

それを知った釈迦のお母さまへの想いは

どのようなものだったのでしょうか。

 

子供を産むというのは、親も子も命がけなのです。

自分を犠牲にして、子を守る親もいます。

 

この臨生受苦の恩も

どんな人でもどんな親であっても

必ず受けてきたご恩であることには間違いがありません。

親の大恩① お腹の中で守り育ててくれた母に感謝

お釈迦様は、

父母恩重経というお経の中に、

親の恩がどれほど深く有り難いものか、

10に分けて教えられています。

 

その「親の大恩十種」の一つ目が、

懐胎守護の恩。

 

①懐胎守護の恩(かいたいしゅごのおん)

 

お母さんが妊娠してから出産するまでの苦労です。

 

「悲母、子を胎めば、十月の間に血を分け肉を頒ちて、身重病を感ず。

子の身体これに由りて成就す」

 

(母親は子を宿せば、

出産までの十月の間に自分の体や血肉を分けて、

子供の骨格をはじめすべてをつくりあげてゆく。

その激しい作業のため、

体は常に重病人のように感ずるが、

こうして子供の体が成就してゆくのである)

 

妊娠すれば、つわりが始まります。

他人から見ていても苦しそうですが、

中には激しいつわりのため、

みるみるやせてゆく女性もあります。

食べ物が摂れないのです。

妊娠すると体に激しい変化が生ずるからです。

 

十月十日といいますが10ヶ月もの間、

子供をお腹の中で守り育てることは大変なことです。

 

お釈迦さまが言われるように、

子供の体はすべてお母さんの体を削ってつくられます。

 

妊娠すれば、

みかんなど酸っぱいものを欲することがありますが、

体が酢酸(酢)を要求するからです。

みかんなどに含まれている酢酸は、

カルシウムを溶かす働きを持っています。

母は子供の骨格をつくるため、

自分の骨の成分であるカルシウムを酢で溶かし、

胎児へと運ぶのです。

 

出産後、

骨がもろくなったり、

髪がばさばさになる女性も多いと聞きます。

カルシウムでできている、

母親の骨、歯、毛髪などが傷んでしまうからです。

 

自分の命を削って子供の体を作って下さるのです。

 

どんな人であっても、

この世に生まれたということは

この懐胎守護の恩があったなればこそ。

 

今現在、

たとえどんなに悪い母親であったとしても、

今あなたがここにいるということは、

少なくともこの苦しみに耐えてくだされた母のおかげなのです。

親に感謝できないのはなぜか?

「なんで自分は親に感謝できないんだろう?」

 

と悩んでおられる方は意外と多いです。

 

親に感謝できなくて悩むというのは、

非常に尊い心の持ち主だと思います。

 

自分の心を見つめ、

「親に感謝したい」

と努力している方にしか湧いてこない心だからです。

 

昔から、

親には感謝しなさい、

親孝行すべき、

育ててもらったのだから恩返しをすべき

などと言われます。

 

仏教でも、

親の恩というものを非常に大事にします。

 

父母恩重経というお経の中には、

山よりも高く海よりも深い親の恩を、

十に分けて説かれており、

これを、【親の大恩十種】といいます。

 

たしかにここまで育ててもらい、

大学など出させてもらったならなおさら、

親に感謝しなければならないのは分かります。

 

しかし、親が酒飲みで、暴力をふるい、

借金をつくって家族を捨てて他の女の元へ行く。

そのせいで家族はめちゃくちゃ。

自分も不幸。

 

そんな親でも果たして感謝できるでしょうか?

 

(なんで自分を生んだんだ!)

(勝手に産んだんじゃないか!)

(こんな不幸にするならいっそ生まれてこなければよかった!)

 

心の中ではそう叫んでいます。

 

そこまで大変な家庭ではなかったとしても、

「まぁ、親に感謝はしているけど・・・」

「恩返ししようとか、そこまでは考えない」

「親が学費出すのは当たり前でしょ」

 

実際はそういう人が多いように思います。

 

実は、

本当の意味で親に感謝できるのは、

自分が本当の幸せになった時です。

 

本当の幸せとは、

世間でいう相対の幸福とは全く違う幸せだと

お釈迦様は説かれています。

 

仏教を聞き、

「自分が生まれてきたのはこのためだった!」

という絶対の幸福が分かった時です。

 

「自分はこの喜びの身になるために、この世に生まれてきたんだ!」

 

ということがハッキリわかると、

産んでくれた親に感謝せずにおれなくなるのです。

 

逆に言えば、

「自分が何のために生まれてきたのか」分からない、

喜べないうちは、

心から「産んでくれてありがとう」と思えないのは当然なのです。

 

感謝しなさい、とか、親孝行するべき、

など人から強制されるものではありません。

絶対の幸福に救われると、

感謝せずにはおれなくなるのです

 

どんなにだらしない、

どうしようもない親だったとしても、

その両親がいなければ、

こんな幸せにはなれなかったと思えるのです。

 

産みの親に限らず、

育ての親にも、

親の代わりに育ててくれた人にも、

ご恩を感じずにはおれません。

 

仏法を聞き、

少しでも早く絶対の幸福にさせていただくことが、

真の親孝行であり親の恩に報いることになります。

 

その身になるまで仏教を真剣に聞かせていただきましょう。

墓参りの本当の意味とは?

8月15日は「お盆」と呼ばれ、

墓参りへ行かれる方も多いと思います。

 

私も小さい頃から、

「じいちゃんの墓行くよ~!」

と親に連れられて、

墓に向かって手を合わせたりしていました。

 

しかし、

内心ではずっと疑問に思っていました。

 

「なんでただの石に向かって、お酒やお花を供えるんだろう?」

「じいちゃんは、もうそこにはいないよね?」

「お坊さんが墓に向かって唱えるなぞのお経は一体何なの?」

「みんな目をつぶって、何を祈っているの?」

 

大人になっても、

本当の墓参りの意味を知らない人が多いのではないでしょうか?

 

もともと「お盆」という言葉は、

盂蘭盆(ウラボン)経」

というお釈迦さまの説かれたお経から来ています。

 

お釈迦さまの十大弟子の一人に目連(もくれん)という人があります。

目連は、神通力(じんつうりき)第一といわれ、

特に孝心の深い人でありました。


その目連が、神通力を得て三世(さんぜ)を観ました時に、

痛ましいことに亡き母が餓鬼道(がきどう)に堕ちて

苦しんでいることが分かったのです。


彼は深く悲しんで、

直ちに、鉢に飯を盛って母に捧げましたが、

喜んで母がそれを食べようとすると、

たちまち、その飯は火炎と燃え上がり、

どうしても食べることができません。


鉢を投げ捨てて泣きくずれる母を、

目連は悲しみ、

「どうしたら、母を救うことができましょうか」

と、お釈迦さまにお尋ねしました。


その時、お釈迦さまは、

「それは、そなた一人の力では、どうにもならぬ。

この7月15日に、飯、百味、五果などの珍味を、

十方の大徳、衆僧に布施しなさい。

布施の功徳は大きいから、

母は餓鬼道の苦難からまぬがれるであろう」

と教えられました。


目連が、お釈迦さまの仰せに従ったところ、

母は、たちどころに餓鬼道から天上界(てんじょうかい)に浮かぶことができ、

喜びの余り踊りました。
 
*神通力:人間の考えの及ばぬ、霊妙自在の力。
*三世:過去世、現在世、未来世のこと。
*餓鬼道:食べ物も飲み物も、炎となって食べられず飲まれもせず、飢えと渇きで苦しむ世界。
*天上界:迷いの世界の中では、楽しみの多い世界。

 

 

親孝行できた嬉しさのあまり、

目連が踊りあがって喜んだことが、

「盆踊り」のはじまりであるという説もあります。

 

しかし、本来の仏教では、

死んだ親や先祖のために食べ物を供えたり、

読経することが親孝行では決してないと言われます。

 

盂蘭盆経を見ても分かるとおり、

お供えをしなさいと言われているのは、

死んだ親や先祖のためではありません。

十方の大徳、衆僧に布施しなさい

と言われています。

 

つまり、説かれる教え(仏教)を大切にしなさいということです。

 

葬式をしたり、遺骨や墓を大事にしたら、

死んだ人間が救われるという迷信は、

仏教では否定されています。

 

また、

「お盆には先祖の霊が帰ってくる」

というのも、本来仏教とは全く関係のない信仰です。

 

お釈迦さまは、

「石は、石の重さで沈んでいったのだ。

どんなに浮かび上がれと言ったところで、浮かぶものではない。

人は、己の過去に造った悪業によって、

悪因悪果、次の世界に沈むのだ」


“読経や儀式で死人の果報が変わるはずがない”

 

と断言しておられます。

 

では、墓参りは全く意味のないことなのか?

 

というと、決してそうではありません。

 

まず、

自分の命の有り難さに感謝するご縁となります。

 

お父さんお母さん、おじいちゃんおばあちゃん、

自分の先祖をさかのぼっていくと、

33代さかのぼったところで、現在の地球と同じ人口になります。

 

そのご先祖の中の誰ひとりが欠けても、

私は生まれてこられませんでした。

 

10代前の〇〇じいさんが、

若くして亡くなっていたとしたら、

もう私はここにはいません。

 

私が生まれたという結果は、

想像もつかないくらい有り難いことなのだと、

お釈迦さまは『盲亀浮木のたとえ』の中でおっしゃっています。

(有り難うの語源)

 

また、私たちは日々忙しさに追われて生活していますが、

せめて年に一度、

やがて自分にも必ず無常(死)がやってくる

という事実を心静かに見つめて、

 

「限りある命で本当になすべきことは何だろうか」

「どうすれば後悔のない人生を送れるのか」
 
と、自分を見つめ直す機会になれば、

墓参りは素晴らしい縁となります。

 

亡き父母や先祖が私たちに願うことは何でしょうか?

「正しく生き、幸せになってほしい」

親が子に願うことは、これしかありません。
 
お釈迦さまは、

私たちがどの方角に向かって生きていけば、

本当に悔いのない人生となるのか、

本当の幸せになれるのか、

お経の中に教えておられます。

 

その教えを聞かせていただき、

自分自身が「本当の幸せ」になることが、

真の供養であり、

真の親孝行となるのです。

 

 

法鏡とは?

私たちが、

決して崩れることのない永遠の幸せになるためには

仏教をよくよく聞くことが大事であると言われます。

 

まず、

自分の本当の姿を正しく知ることが、

幸せの第一歩だからです。

 

2600年前のインド。

お釈迦さまが、

35才で仏のさとりを開かれてから、

80才でお亡くなりになるまでに説かれた教えを仏教といいます。

 

お釈迦様がお亡くなりになる時、

お弟子が、

「お釈迦様の45年間の教えを一言で言うとどんな教えですか?」

と尋ねました。

 

7000冊以上のお経になる膨大な教えを、

たった一言で答えるとは非常に大変なことです。

 

ところがお釈迦様は、

「汝らに法鏡(ほうきょう)を授けるであろう」

とズバリ一言で喝破なされています。

 

「法」とは中国の言葉ですが、

インドのサンスクリット語で「ダルマ」、

日本の言葉では「真実」という意味になります。

 

法鏡とは、

真実の自己を映す鏡ということです。

つまり、

「仏教を聞く」ことが、

「ありのままの自己を知る」

ということになります。

 

私たちは、

自分のことは自分が一番よく分かっている

と思っていますが、

果たして本当にそうでしょうか?

 

自分のことが分かっていたら、人間関係に悩んだり、

苦しんだりすることがあるでしょうか。

 

死んだら「自分の魂」はどこへ行くのか?

知っている人はあるでしょうか。

 

名前や肩書きや、地位や名声、

そしてこの身体は、いつまでもあるものではありません。

いつかは必ず無くなるものであり、

死ねばすべて、自分のものではなくなります。

 

私たちが「自分」だと思っているものは、

今生きている間だけの借り物にすぎません。

 

仏教で、「真実の私」とはどのように説かれているのでしょうか?

仏教は暗いのか?

「仏教を聞くと、暗くなる」

「私はもっと明るく生きたいのに、仏教ではマイナスなことしか言われない」

「仏教は死のことばかり」

 

といった意見がありますが、

これは、

まだ仏教の片側しか知らない意見だと思います。

 

確かに、

仏教では「人間の実相」

つまり自分の本当の姿が次のように説かれていますので、

仏教に厳しいイメージを持つのも理解できます。

 

心常念悪(心は常に悪を念じ)

口常言悪(口は常に悪を言い)

身常行悪(身体は常に悪を行い)

曽無一善(かつて一善も無し)        

by『大無量寿経

 

お釈迦様は、

すべての人間の本当の姿がこのような極悪人だと説かれているのです。

一人も残らず、です。

 

「あなたもこのような極悪人なのですよ」

 

と言われて反発しない人はいないと思います。

 

「ときどき悪いことは考えたり、

言ったりすることはあるかもしれないが、

常にではないだろう。」

「善のひとつくらいは頑張れば出来る」

 

と思っているのが私たちです。

 

確かに自分を否定されているようで、

仏教は聞けば聞くほど辛くなると思う人もいるでしょう。

 

しかし、自分が一体どんな者なのか、

真実の姿を知らなければ、

真実の幸せにはなれないと言われます。

 

例えて言うならば、

 

難病の患者がいる

・その難病を治すがすでに開発されている

・その薬さえ飲めば、その難病は必ず治る

・ところが、患者は自分が難病であることを認めず、薬を飲まない

・医者や周りのすすめにも関わらず、薬を飲まなかった患者は苦しみ、

結局んでしまう

 

この患者が死んでしまった真の原因は、

難病ではなく、

自分が難病だと認めなかったことである。

 

私たち人間も、

この難病患者と同じように、

「心の病」にかかった病人だといわれます。

(※心の病とは、うつ病精神疾患のような病気のことではなく、

全人類が迷い苦しんでいる姿のことです)

 

この心の病を治す薬はできあがっていて、

薬さえ飲めば治って、幸せになれるのに、

自分が心の病にかかっていること

認めようとしないから苦しんでいるのです。

 

仏教では、

自分がどんな者であるかをあきらかに見てもらう(諦観)ために、

人間の実相という、たとえ話を説かれています。

 

自分の真の姿を知り、

どんな極悪人をも絶対の幸福に救う教えであった!

というところまで、

聞かせていただくことが仏教の決勝点です。

心で思っていることを、すべて言葉にできるか?

仏教では、

人間の作る罪悪を「十悪」にまとめられ、

そのうち最も恐ろしい「欲・怒り・ねたみそねみ」の心を見てきました。

 

これらの心が、

口から出る(言葉になる)と次の4つの罪悪となります。

 

④綺語(きご)・・・心にもないお世辞を言うこと。

⑤両舌(りょうぜつ)・・・

二枚舌とも言い、仲の良い人の間を仲たがいさせるようなことを言うこと。

こっちではあの人の文句を言い、あっちではこの人の文句を言う。

学校や会社などでもよく見る光景。

⑥悪口(あっこう)・・・わるぐち、中傷。

⑦妄語(もうご)・・・ウソをつく。事実無根のデタラメを言うこと。

 

どれも、

人生で一度もやったことはない、

という人はいないのではないでしょうか。

 

また、自分もこれらの言葉で深く傷ついた経験がある

という人が多いと思います。

 

言った方は何気なく言った言葉が、

言われた本人には一生心の傷となって残ることもあります。

 

お釈迦さまは、

私たち人間の心と口の関係を次のように説いています。

 

心口各異 言念無実 (しんくかくい ごんねんむじつ) 

by『大無量寿経

 

(心で思っていることと、実際口にしている言葉は全く異なる。

どこにも真実はない。)

 

例えば、

知り合いのお母さんに会い、その赤ちゃんに対して

「お世辞にも可愛いとは言えない。どちらの親に似たのだろう、可愛そうに・・・」

と、心では思っていても、

「まぁ、可愛らしい赤ちゃんね!」

と言ったりします。

 

「可愛くない赤ちゃんね」

などと正直に言えば、

最低な人だと思われ、その方との人間関係は終わってしまいます。

 

正直になることが良いこととされていますが、

すべての人が正直に行動していたら、社会はどうなるでしょうか。

 

私たちはいつも本音を隠すのに苦しんでいるのです。

隠さなければ生きていけないような、

見にくい本音が心にあるのです。

 

これから科学が発達して、

心の中が見えるシステムなんかが発明されれば、

この人間社会は恐ろしいことになるに違いありません・・・。

 

もちろん、

心で思っていることをそのまま口に出せばいいという訳ではありません。

 

悪因悪果の通り、

言ってしまえば、すべて自分に返ってきます。

 

そして、

悪いことを思わないようにしようと思っても、

思ってしまうのは、

人間だからです。

 

悪いと知らずにやってしまうのと、

悪いと知ってやるのでは、

結果が違います。

 

お釈迦さまは、

知って作る罪よりも、知らずに作る罪のほうが重い

と言われます。

 

悪いということを知らない人は、

同じあやまちを何度も繰り返し、罪を作り続けることになるからです。

実は、こちらのほうが可愛そうです。

 

悪いと分かっている人は、

無意識でもブレーキがかかるので、

そこまで大きな罪にはなっていかないのです。

 

自分もそういう罪をつくる人間だということを自覚し、

「あきらかに見ていく(諦観(たいかん))」ことが、

本当の幸せになる第一歩だといわれます。